それはとてもいいアイデア
その夢は、身体に楔を打つような痛みから始まる。
痛みに驚き、呻き声を上げながら勢いよく目を開けた。そこは、銀行の賭場に似た窓のない部屋だった。
額を汗が伝う。大汗をかいている。さっと拭い、息を吐いた。
毛足の長い真っ赤な絨毯に、幾何学模様の壁。ウォールライトのオレンジ色に照らされた部屋の真ん中には大きな黒檀の机と、その上に散らばる意味不明な盤と駒にカードの山。
部屋の全貌を把握すれば、先ほど感じた痛みは体のどこにも残ってはいなかった。痛みどころか、眠気も、疲労も、空腹もない。もう汗をかいてはいないのに、額を拭った。
ここにあるのは己という存在、ただそれだけ。
いつもの夢か、と独りごちる。
そう、いつもみる夢の中だった。だから、この先の展開もよく知っている。首許を少しだけ緩め、居住いを正す。
「大丈夫?」と対面から声をかけられ、誰の声かはっきりと分かっていたが、それでも視線を上げその姿を捉えた。真経津だ。この部屋で唯一、俺以外に存在している男。
「獅子神さんの番だよ」
「急かしてんじゃねえよ」
上げた目線を下げ、卓上に散らばる駒やカードを見た。といっても、カードに書かれている記号も、真っ黒な駒の意味も、盤に描かれたマス目の規則性も、俺には理解することは出来ない。理解することが出来ないのにどうしてか、次が俺の番で、駒を真経津の右斜め前のマスに置き、左からニ番目のカードを場に捨てなければならないことを理解していた。俺は駒を動かし、カードを場に捨てた。
「なに笑ってやがる」
「友だちと遊ぶのってさ、楽しいね」
「そうかよ」
真経津が駒を動かし、カードを二枚捨てた。
「テメーは遊べたら誰でもいいんだろうが」
「そうでもない」
真経津の長いまつ毛が白磁のように白い頬へ影を落とす。
「やっぱり、遊ぶなら面白い人とのほうが良い」
「俺は、テメーのいうところの、面白いやつに当てはまるのかよ」
赤く、形のいい唇がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「過小評価だね、獅子神さん」
「過小でもねえし、これは評価でもねえよ」
真経津が、先ほど俺が置いた駒を小突く。コン、と軽い音を立てて倒れた駒は、どういう仕組みか塵となって消えてしまった。
「俺はテメーに負けた」
「懐かしいね」
眩しがるように真経津が目を細める。
「二度とあんな無様な姿は晒さねえ。けど、オメーだってあの日のままってワケじゃねえだろ」
そう言葉にして、まるで再戦を願ってるみたいだと自覚した。再戦を。俺が、真経津に。俺の無意識は真経津と戦いたいと、そう願っているのだろうか。
「獅子神さんらしくないね」
「なにがだ」
睨むが、真経津はどこ吹く風で受け流す。
「夢の中のボクに聞いても、意味なんてないと思うけど」
「……そうだな」
真経津の言う通り、己が作ったであろう夢の中の虚像に問うても、無意味で無駄な行為なのだろう。夢は夢の範囲を越えることはない。俺の思考は、俺の思考の先を行くことはない。だけどどうしてか、俺の前で頬を付いて笑う真経津は他の誰でもない真経津晨その人だと思えた。
錯覚だろうか。妄想だろうか。まあ、所詮は夢だ。
俺は駒を動かし、今度はカードを一枚山札の上から引いた。
「夢にまでボクを見るなんて」
真経津が指先だけで手札のカードを弄る。ズキリ、と手の古傷が痛んだ気がした。
「どうして夢をみるんだろう」
「テメーが与えたペナルティを、忘れたとは言わせねえぞ」
はは、と真経津が声を上げて笑った。子どものような、無邪気な笑い方だった。
「まだ痛い?」
真意の読めない目で真経津が問う。
「テメーで考えろよ」
真経津に倣って駒を倒せば、それも矢張り塵となって、消えた。
「獅子神さんって、ボクのこと好きだよね」
「別に、普通だろ」
「夢にまでみるのに?」
「あのなあ」
「それ」と、白く長い指が俺に向けられる。指の先を辿り、辿るまでもなかったが、真経津の指すモノを視界に捉えた。俺の左手、ペナルティで受けた裂傷の痕だ。
古傷は、俺の手に歪な形となって残っている。歪んだ跡は自身への戒めだったが、これは墓標だとも呼べた。過去との離別だ。
この形を選んだのは俺自身であった。そして、これを与えたのは目の前に座っている真経津晨という男だ。真経津が俺にスティグマを与えた。
「獅子神さんって、へんな人だよね」
「うるせえな」
「ボクは、へんな人って好きだけど」
「テメーも十分、へんな人、だろ」
そうかな、と態とらしく首を傾げる。そうだろ、と無遠慮に返してやる。
「獅子神さん」
名を呼ばれ、顔を上げた。白い指が自身の甲を指す。真経津の傷ひとつない手の甲を眺めながら、言葉の先を待った。
「マーキングみたいだよね、それ」
「なに、言ってやがる」
「駄目だよ。自分の言葉に惑わされたら」
自分の言葉って、そう聞き返せば、理解してるでしょ、と返される。
「夢は夢の範囲を超えないんだよ、獅子神さん」
「……オメーの発言は俺の思考の範疇だって、そう言いてえのかよ」
「獅子神さんが分析したボクは、獅子神さんに傷を作りたがってる?」
「俺はテメーから受けた烙印を、所有物の証にしてえと、そう思ってるってか?」
「ボクはゲームに勝っただけだよ。ペナルティに意味を与えたのは獅子神さんだ」
「俺にアイデアをチラつかせたのは真経津、テメーだろ」
「獅子神さんは、ボクの傷に意味を見い出したんだ?」
突然、視界が開けたように鮮明になった。いや、世界が鮮やかになった、のか。盤も駒もカードも消え失せ、俺と真経津は膝を突き合わせて座っていた。
「真経津」
俺は手に包帯を持っていた。
どうして包帯を。そうだ、巻いていた。真経津の手に。賭場からボロ布のような惨状で帰ってきた真経津の手に、包帯を巻いたのだ。綺麗だった真経津の手は血だらけで、だけど満足そうな顔をしていて。傷口から流れ出た血が、俺の手に伝う。どうして。俺と同じ場所に自身でナイフを突き立てたからだ。と、言っていた。面白いゲームだった、とも言っていた。事実は知らない。真経津の血が、暖かい。俺が知っているのは、真経津が俺と同じ場所に同じ様な傷をつけて帰ってきた。それだけだった。
「お揃いだ」
息も切れ切れに真経津が言った。俺は、なんと答えただろうか。
「獅子神さん」
蠱惑的な笑みを湛えた真経津が、俺を真っ直ぐに見ている。
「いいアイデアだったでしょ?」
飛び起きた。
汗をかいている。息も上がっていて、肺が苦しい。冷たい酸素が早急に肺へと入り込み、咽せた。喉が痛い。視界が滲んでいる。目頭を雑に拭う。悪夢だった。
「大丈夫、獅子神さん」
声の方を向けば、いつもの微笑み顔の真経津がすぐ側にいた。
「……」
「怖い夢でも見たって顔だ」
「……テメーの夢だ」
ひどいなあ、と戯けるように真経津が言った。それを無視し、前髪を掻き上げる。二度ほど深呼吸し、現実へと戻って来る。
あの夢を見ると、いつもこうだ。
追われるように覚醒し、乱れた息を整えながら何度も夢での情景を頭の中で反芻する。それから、歪な形で残った傷跡を確認するのだ。自分に焼き付けられたモノの正体を再確認するよう、指の腹でなぞりながら。
「夢の中のボクは獅子神さんに酷いことでもした?」
真経津邸の、いつものソファーへ背を預けた真経津が首を傾げる。
バルコニーから見える外は水色が混じった朱色で、空は日が暮れようとしていた。部屋を見渡す。ここに居るのは俺と真経津、二人だけだった。当たり前だ。俺一人でこの家へと来たのだから。
「魘されてたよ」
「……我儘放題のオメーを殴ってきた」
「酷いな、怪我人なのに」
ミトンみたいに包帯でぐるぐる巻きの両手を、真経津が掲げる。夢が脳裏に過り、嫌な汗が首裏を伝った。生暖かい血の感触が、どうしてか俺の皮膚に蘇る。
「……手、痛そうだな」
「獅子神さんも痛かったでしょ」
「オメーほど満身創痍じゃなかったっつうの」
手を伸ばし、真経津の髪をぐしゃぐしゃと雑に掻く。無茶してんじゃねえよ、と。真経津は擽ったそうにするだけだった。
「初めて会った日の夢?」
「違えよ」
じゃあ、どんな。子供のような透明で無邪気な好奇心を滲ませた目で真経津が問う。
「……意味のわかんねえゲームしながら駄弁ってる夢」
「へえ」
「チェスとか将棋みてえなマス目の盤があって、黒い駒を操って、たぶんコストとしてカードを切ってた」
「不思議なゲームだね」
詳細など省いてしまえばいいのに、俺はどうしてか詳しく夢の話をしてしまっていた。真経津は余計な相槌は打たず、まるで読み聞かせでも聞いている子供の様に耳を傾けている。
「ルールも規則性も分からねえ。けど、どうしてか俺もお前も、ゲームの流れを理解してやがった」
区切り、続ける。
「そもそも、勝ち負けがあるのかさえ分からねえ」
それは面白そうだね。
声に誘われ、真経津の顔を見る。背筋が寒くなった。此処ではない何処かを見て笑っている。透き通るほどに透明で、だけど真っ暗な、そんな目で。本当に自分と同じ、血の通った人間なのだろうか。
「……勝敗のねえゲームなんて、やる意味あんのか?」
暗く底の見えない真経津が得体の知れないモノに思え、恐ろしさから、咄嗟に紛らわせるような言葉が口を衝いた。
恐ろしい?
どうして。
俺の手に楔を打った目に似ていたからか。それとも、俺の下らないネタを見破った目に似ていたからか。それとも、不意に見せる、他人を自分の側へと誘う目に似ていたからか。
そんな俺の焦りには目も向けず、真経津が幼さを含んだ笑顔で答えた。
「一生、遊べるってことだ」
包帯の巻かれた手が、俺の方へと伸ばされる。触れる数センチ前、避けるように顔を背けた。
「……オメーと遊ぶのは気合いがいるからな、俺はできれば、勝敗がつくゲームにして欲しいけどよ」
「気楽にしてくれていいよ」
「うるせえって」
今度は逃げることが出来ず、包帯の巻かれた手に捕まった。真経津の手が俺の頬へと触れ、肩に体重を掛けられる。
「獅子神さんは最後までボクと遊んでくれるよね」
「アホ、俺だって別に賭博が本業じゃねえんだよ」
押し退けようと真経津の肩を押すが、びくともしない。
そういえば、俺はどうして一人でこの家へと来たのだろうか。
「きっと楽しめると思うよ」
そうだ。手が不自由だから、と食事や掃除の手伝いに来てやったのだ。
「獅子神さんが見たかったものが、見れるはずだ」
手を引かれ、誘われる。真経津は、俺をどこへ連れて行こうとしているんだろうか。
「見たい、もの」
「ボクなら見せてあげれるよ、獅子神さんが見たがってるもの」
肩に乗せられていた手は、気が付けば俺の腕へと巻き付いていた。体を引こうにも、ソファーの背に遮られて動くことが出来ない。
「宇宙の果てを望むことだってできる」
「妄言だ」
「比喩だよ。でも、もっと鮮明に世界が見える様になるはずだ」
今より、もっと。耳許で囁く。唾をのんだ。
賭場での記憶たちが氾濫し、濁流となって俺の体へぶち当たる。
手に杭を打たれ、血を流し、電流を流され、視界が壊れ、死線の先に見た景色を。鮮やかな景色だった。今まで見えていなかった世界は、確かに俺を心躍らせてくれた。
ぐらり、と。座っているのに足元がふらつく錯覚に襲われた。記憶の洪水に体が攫われそうになっている。ズキズキと古傷が痛む。目を瞑り、終わりを待つ。静かに、息を潜めて。
数秒待てば、前後不覚の幻覚は俺の元から去っていった。
ゆっくりと瞼を開き、恐る恐る口を開く。
「……わかった口利いてんじゃねえよ、ボケ」
嬉しそうに、心の底から嬉しそうな顔をしている。真経津が、まるで俺がそう答えると分かっていたかのように。
実際、分かっていたのだろう。俺が真経津の手を取らないことなど。真経津の手を取らないからこそ、真経津を意識し、依存している証なのだということが。
「次に戦る時まで待っとけよ」
「楽しみだね」
ね、と同意を求めてくる。そんな真経津の額を指で弾き、傷だらけの手から離れた。
真経津があの日、俺に与えたのは手の傷だけじゃない。深く突き刺さっている。真経津晨という男の存在が、俺という存在に。
お揃いだ、と言った。笑っていた。夢の中の真経津も、現での真経津も。与えられた傷が自戒ではなく、互いを結び留める楔になってしまったようだった。
いや、俺が選んだ歪な意味を、真経津は利用したのだろう。それこそ、一生遊んでくれる誰かを自分の側へと引き摺り込む為に。
「今の獅子神さんは、凄く面白そうだ」
そう耳許で囁き、幕を引くように真経津が離れる。
「……そりゃ、どうも」
真経津の手に視線をやれば、目敏い男がニコリと笑う。今にも鼻歌まで唄い出しそうな程に上機嫌だ。きっと、いずれ、俺が真経津の手を取ると、そう予見してるんだろう。いや、そうなるように仕向ける気か。
どちらでもいい。
どちらにせよ、俺はあの夢から逃れることは出来なさそうだ。