アウフタクト
湿った土と、排気ガスの臭い。煩わしいほどの雨が、止むことを忘れたかのように降っている。ざあざあと激しい雨音が、忙しなく鼓膜を震わせていた。
雨は朝から降っていた。いや、昨晩からか。長い間降り続け水浸しになった街は、文明の光を水面に受けキラキラと反射させている。先程降りた車も、水面に光を湛え様々な色に変わっていた。
煩わしいほどの雨が、止むことを忘れたかのように降っている。
アスファルトから跳ね返った雨粒が、昨日磨いたばかりの革靴を汚していく。クソ、と悪態を付きたかったが、俺は言葉一つ発せれなかった。
顔が熱い。心臓がどんどん早まっていくのが分かる。頭の中で先程の光景が、壊れたビデオテープの様に何度も再生されていく。
先程、一秒も経たない前の、瞬き一つぐらい前。俺の唇は、目の前の神経質そうな男の唇によって塞がれていた。触れるほどの柔らかいキスだった。まるで何かの手違いのような、誤魔化してしまえるぐらいの。
軽く触れた唇は、しかし長くは留まろうとはせず、直ぐに俺から離れていった。それから、つ、と冷たくて硬い指が、俺の頬の形を確かめるかのようになぞり、そしてまた直ぐに離れていく。
ぴたりと触れていた唇は既に離れているというのに、他人の熱を保っていた。神経質そうな男、もとい村雨の、形の綺麗な切れ長の目が俺を捉えて一度、瞬く。異様な熱が、胸の奥でジグジグと燻っていく。
「それでは、また会おう」
顔色一つ変えない村雨が「おやすみ」と手を振った。突然、なんの予告もなしに俺へキスしてきた癖に、だ。村雨はいつもの蒼白い顔のまま、まるで当たり前の日常みたいに。当たり前の日常を無理矢理繋げたみたいに。おやすみ、と。
ざあざあ、ざあざあ。雨音が煩い。
雨が振る街に、村雨の細長い体躯が溶けて、消える。一度も振り返ることなく。どうして俺にキスをしたのか、理由も言い訳も述べることなく。雨の雑踏へと村雨が溶けて消えた。
ざあざあ、ざあざあ。雨音が、いや、これは俺か?
顔が熱い。言葉すら発せなくなった俺とは違い思考は、様々な仮定を打ち立て、そのどれもを熱で溶かしていく。
うるさ過ぎる雨音の中で俺は、動けないまま燻る熱を持て余すことしかできなかった。
「あの、獅子神さん、焦げてます!」
園田が慌てたような声音で俺の手元を指差す。指された場所に視線をやれば、テフロンのフライパンの中で肉が黒く焦げ始めていた。
「……ッチ」
舌打ちをひとつ。それから、自分の情けなさを自覚してしまう。
村雨からキスをされてから一週間も経つというのに、あの時の場景を思い出しては呆けている。そう、呆ける、だ。惚ける、ではない。何故なら、俺と村雨はそういう関係じゃないからだ。そしてキスをされたのは、あの日が初めてだったから。
あの日、いつもと変わらない日だった。恒例となってしまった真経津家で、子供騙しのゲームをワケの解らないハンデをつけながら、飯を食って駄弁って。それで、夜になったから各々の帰路につく。そんな、適当な毎日のひとつだった。
村雨は、いつも真経津家までの移動に俺の運転を要求してきやがる。だからその日も当たり前のように乗せて帰っていたのだ。だけど、その日はいつもと違っていた。いや、途中まではいつも通りだったはずだ。
土砂降りの雨だった。村雨の家に近い路肩に車を停め、偶にはテメエの足で帰れ、なんて言って降ろしたんだっけか。それで、それから、それからなんで俺も車から降りたのだろうか。
ああ、そうだ。手を引かれたのだ。村雨に。あなたも降りろ、と。だけどどうして、その手に素直に従ったのかよく分からない。いや、覚えていない、に近い。あの時の俺はまるで、魔法にでもかけられた様に村雨の言葉へ従ったのだ。
差し出された手に引かれ、村雨の差す真っ黒な蝙蝠傘に入れられた俺は「どうした?」と聞いた。どうした、何かあったのかよ、と。しかし俺がそう問い掛けても、村雨は何も答えようとはしなかった。ツリ目がちの目が、雨の降る街を観察するように観ていたのを覚えている。
不意にそっ、と冷たくて硬い指の腹が俺の頬を撫で「柔らかいな」と、呟いた。
「メスが通りやすそうだ。それに、健康的だ。解剖し甲斐がありそうだな」
「……いや、するなよ」
村雨の読めない行動に数秒、反応が遅れてしまう。
「もし気が変わったなら、いつでも私に言うといい。あなたなら歓迎する」
「いや、絶っ対ぇ頼まねえからな」
ふ、と村雨の目が和らいだ。笑ったのだと悟った。村雨は、無愛想かつ冷徹で、どんな局面でもポーカーフェイスを崩さない生粋のギャンブラーであるこの男は、どうしてか笑った時だけは素直すぎるぐらい顔に出る。それも、今みたいな会話にもならない言葉の応酬で。
「ったく、あのなあ。用がないなら、そろそろ車に戻って」
いいか。そう続けるはずだった言葉は、突然塞がれた唇によって消えた。キスされたのだとは気が付かなかった。ただ、唇と唇が触れているという事実だけ。それから、思考を飛んでやってきた、焼けてしまいそうな熱。
呆然とする俺には構わず、無遠慮な指が頬をなぞり、満足気に離れていく。村雨は瞬きをひとつし、そっと俺の手に自分の傘を握らせた。
「それでは、また会おう。おやすみ」
おやすみ。いつもは言わない別れの言葉に、俺はなんと答えたのだっけ。
ドンッ、と重く硬い音に園田が小さく悲鳴を溢した。
「全ッ然、意味が分からねえ……‼︎」
机を力一杯殴ったせいで拳が痛い。園田は、慌てたように視線を右や左にやっている。お前はもう少し落ち着け。
「なんなんだ、アイツ……」
訳がわからない。なんてもんじゃない。理解不能だ。あの会話や行動に何の意味があったんだ。真経津なら、ふざけていただけ、や、なんとなく、で片付くが。相手はあの村雨礼二だ。正確無比な思考の男が気分であんな事をする訳がない。
分からないなら本人に聞けばいい。昔の俺なら死んでも聞けなかっただろうが、今の俺なら聞けるはずだ。だけど今は、その手段を使いたくはなかった。思考停止なんて無様な姿は、村雨には見せられない。それに理解を放棄するのも、なんだか負けた気がして癪だ。
俯いた視界に歪な傷跡が写る。真経津とのギャンブルで負った傷だ。親指で擦るようになぞれば、ボコボコとした歪な凹凸が指の腹から伝わってくる。そうだ。
「……俺はもう、負けられねえ」
一歩ずつ。そう決めたのは、まだ遠くない記憶だ。だから、こんなところで思考放棄なんかしてられるかよ。
無機質で寒々しく感じる家は、家主の性格がよく出ているからだろうか。
村雨邸はいつ来ても味気無く、必要最低限の家具しか置かれていない。だからと言ってこだわりが無い訳ではなく、数えるぐらいしかない家具の一つひとつは手入れが行き届いており大切に扱われている事が分かる。
「何か飲むか」
キッチンに立つ村雨がカップとソーサーを用意しながら聞いてくる。何か、と選択肢を与えてくるが、コーヒーしか置かれていないのは知っていた。
「アンタと一緒のでいい」
「ではコーヒーを淹れよう」
慣れた手つきでコーヒーの準備をしていく。そんな村雨を、ソファーへ座り頬杖をつきながら眺めた。
「気が変わったのか」
「え?」
薄い唇が不意に言葉を発した。唐突な言葉に頬杖をついていた顔を上げ聞き返す。村雨の手元でカポン、と缶を開ける音が聞こえた。骨ばった手がコーヒーの粉をドリップへと入れていく。作業の手はそのまま、顔を上げる事なく村雨が続ける。
「あなたが私の家に来た理由だ」
先日の会話を思い出す。直ぐに出てきた記憶に一瞬、顔が熱くなった。が、頭を振って熱をはらった。
確か、村雨は俺の頬を触って「解剖し甲斐がある」と言っていたっけか。
「いや、解剖されに来た訳じゃねえよ」
今日の目的は観察だ。村雨が何の目的があって、あんな行動に出たのか。何を考えているのか。
「……もっとテメーの事を知ろうと思ってな」
そう答えると、村雨は変な顔をして俺を見た。例えるなら、急ぎの用事があるのに家の前でトラックが大事故を起こしてしまった、といった様な。目の前で自分の家が燃えているのに、消防や警察へ連絡する手段が無い、といった様な。困惑、とも受け取れるし、怒り、とも受け取れる様な、そんな表情だ。
「あなたに教える事は無い」
「教えを乞いに来た訳じゃねえよ」
村雨の表情に内心動揺しつつも、顔には出すまいと慎重に言葉を選ぶ。
「……好きにすればいい」
俺の言葉に何か苛立ちを覚えたのか、村雨がぞんざいにコーヒーの缶を置いた。コン、と少し大きな音に驚く。どんな場所でだって冷静さを失わない男のはずだ、俺の知っている村雨礼二という男は。物を雑に扱うなんて事は、しない。
何か見落としたのか。それとも何かが変わったのか。だが視線の先に居る村雨は、いつもの無表情しか見せてはくれなかった。
「村さ」
コンロに置かれたケトルがグツグツと低く唸りながピーピーと騒ぎはじめる。俺の言葉は、湯が沸いた知らせによって掻き消されてしまった。
村雨はケトルの湯をすぐにはドリップへと注がず、布巾の上に移動させる。食器棚から取り出したガラス製のポットを一度、水で濯ぐ。このポットは初めて村雨邸に招かれた時から見るものだった。薄いガラスの体面にはメモリが描かれており、食器棚に入っていなければ大きなビーカーにも見える。一度だけ、そんな俺の感想を伝えた事があった。伝えた、と言っても、独り言を勝手に聞かれただけだったが。
勝手に俺の独り言を聞いた村雨は冷めた目で一瞥した後、あなたが言いたいのはビーカーではなく三角フラスコの事だそれにこの形は三角フラスコよりはコニカルビーカーが一番近いだろう、とかナントカ、延々と嫌味を言ってきた。
当時はまだ知り合ったばかりだったから、それが村雨による一種独特な親切の一つだとは分からなかったっけか。お陰様で、悔しさを抱えた俺は実験道具に少しだけ詳しくなってしまった。
「あなたは、誰にでもそうなのか?」
「は、何の話だ?」
布巾の上に置かれていたケトルを持ち上げた村雨が、また唐突に言葉を投げる。
「誰にでも、そうやって理解しようとするのか?」
「ギャンブルやってんなら必須だろ。相手を理解しようってのは。お前だって、そうだろ」
「問診だ」
「はい、はい」
「それに、私はギャンブラーではない」
「医者なんだろ」
知ってるって。と、お決まりの言葉に呆れ半分で返してやる。不機嫌そうな顔で村雨がお湯を注いでいく。
「それで、あなたは何か分かったのか?」
そう問われ、視線を上げた。ドリップから上がるコーヒーの湯気越しに、村雨と目が合う。その目があまりにも鋭かったので一瞬、驚きからか心臓が跳ねた。
「……マヌケめ」
「はあ⁉︎」
突拍子の無い罵倒に思わず声が裏返る。
「な、テメー、どういう事だ!」
「何一つ分かっていない癖に、どうして私の家に来た、と言ったんだ」
「いや、言ってなかっただろ⁉︎」
そもそも何一つってどういう事だ、と聞き返したが、村雨はくるりと俺に背を向けた。薄い背中が拒絶の意を述べる。
「私はもう、あなたに教える事は無い」
「答えになってねえ! それに、そもそも教えて貰おうなんて」
「何を勘違いしているか知らんが、私という人間を曲解し過ぎだ」
「は?」
食器棚を漁る背が、ため息をひとつ吐く。
「あなたに迷惑をかけたと思っていたが、杞憂だったようだな」
「待てよ、村雨」
「マヌケ、聞こえなかったか。私はもう、あなたに教える事は無い、と言った」
お盆を手にした村雨が振り返る。その目は「自分で考えろ」と、俺を突き放していた。
「コーヒーを持っていく。大人しく待っていろ」
「おい、待てって」
「大人しく待っていろ、と言った」
下がり気味の口角はきゅっと結ばれ一文字を描いている。こんな時の村雨が折れた試しがない。お手上げ、とばかりに俺は両手を上げた。
「……わかったっつーの」
結局、その日は村雨礼二という男の情報を何ひとつ得る事はなく、というより、自由気ままな真経津によって呼び出されたので、この日は夜遅くまで速度がおかしいテトリスで遊び解散となった。
「村雨さん家って楽しい?」
今日もいつも通り、朝から真経津邸に呼ばれた俺は、村雨や叶、最近ではここに天堂というイカれた神父も加わり、真経津と駄弁ったり謎のゲームや動画を撮ったりして過ごしている。
そんな時間の小休止として真経津の、趣味の物で散らかった部屋を掃除してやっていれば、村雨や叶たちと駄弁っているのに飽きたらしい真経津が話しかけてきた。話しかけて、というよりは、確認に近いモノだったが。
「楽しくはねえな」
「へえ」
聞いてきた癖に、これといって興味も無いといった態度を真経津はとってきやがった。それから、そのトランプはこっちの箱じゃないよ、なんて俺の片づけに文句をつけてくる。
「でも獅子神さんって最近、毎日行ってるよね」
「毎日じゃねえけど、そういえばそうだな」
「ふーん」
「興味ないなら聞いてんじゃねえって」
「ああ、ごめん。興味は無いんだけどさ」
「興味ねえのかよ」
リビングから叶の声が聞こえてきた。どうやら、また動画を撮っているらしい。
「ボクはこうやって、友達と遊ぶのが好きだからさ。獅子神さんもそうなのかなって思っただけだよ」
整った真経津の顔が、ゆっくりと笑みを作っていく。ここでコイツの本音を探るのは時間の無駄だ。だから、額面通りに受け取ってやった。
「……悪くはねえと、思ってる」
「ああ、言わなくても知ってるよ」
「そうかよ」
友達なのかはさておき、確かに真経津たちと会うのは苦痛じゃない。寧ろ楽しみに感じている自分がいる。でなければ、家に行ったりなどしないだろう。真経津の家にも、村雨の家にも。いや、村雨の家には、村雨には、もっと違う何かを思っている気がするが。
「……まあ、お前は遊びすぎだけどな」
「まだまだ遊び足りないぐらいだけどね」
今度はさっきの笑みとは違い、無邪気な子供のように真経津が笑った。こんな無邪気さが村雨にもあれば、真経津の無邪気は邪気が強めだが、それでも少しは理解できたのだろうか。いや、全て戯言だ。
「獅子神」
思考へと沈む俺へ、いつの間にか側へとやってきていた村雨が声を掛けてきていた。小さく肩が跳ねる。そんな俺に気が付かなかったのか、それとも見逃したのか、村雨は眠そうな目を細め言った。
「眠い。私を家へと送れ」
招かれた真経津邸で夕食は摂らず、俺と村雨は帰る事にした。いつの間にか村雨の足という認識が真経津や叶たちの間で定着しているのは癪だったが、これも村雨の事を理解する一環だと考え煩くは言わなかった。
ハンドルを握る手に、エンジンの駆動が伝わる。車は高級住宅街を抜け、繁華街の側を通り、やがてまた静かな高級住宅街へと移ろう。空は深い夕刻の色に染まっており、ビルの群れから暗い青が滲むように広がり街に夜の気配を伝えている。
助手席に座る村雨は眠いと言っていたクセに目をしっかりと開けて座っていた。骨ばった手を足の上で組み、首を少しだけ傾け窓外を静かに観察している。そんな横顔を視界の端で捉えながら車を進めていく。
「ほら、着いたぜ」
そういって村雨邸の、四角いシェルターみたいな家の前に車を停めてやる。今日は意地悪などせず、素直に送ってやった。だが村雨は一向に車を降りようとしない。もしかして寝ているのか、と思ったが目はしっかり開いている。どころか、鋭い光を湛えた目が俺をギロリと睨んだ。
「村雨……?」
肩を揺すろうと手を伸ばしかければ突然、人形みたいに動かなかった村雨が口を開いた。
「あなたは、どうして私を自分の車に乗せる」
はあ? と大きな声が反射的に出てしまう。眠いから送れと言ってきた癖に、何を言ってやがるんだ、この男は。
「オメー、自分で乗せろって言ってきただろ!」
「それでも、私の要求を跳ね除けるぐらい、あなたにとっては簡単な事だろ」
村雨が居ずまいを正す。
「私が車から降りろと言ったのも、無遠慮に触れたのも、その後勝手にキスしたのも、あなたなら防げたはずだ」
「……は」
なんの話をしてるんだ、コイツは。いや、なんの話が始まる?
「普通は、無礼を働いた人間の家に来たりはしない。ましてや自分の車に乗せようなどと思わないだろう」
村雨が止まることを忘れたように続ける。
「先に手を出した事は謝罪すべき事実だが、どうしてヒョコヒョコと無防備に会いに来る? どうして勝手にキスをした私を理解しようとする? それなのに、非情に嘆かわしい事だが、全く伝わっていないどころか変な誤解をしている上に、あの男にまで指摘されて……だというのに、あなたはまだ何も気がついていない」
「ま、まて、オマエこの前、教える事は無いって言ってなかったか⁉︎」
「教えている訳じゃない。私が聞いているんだ、マヌケ」
村雨が助手席から身を乗り出す。距離が近い。すっと伸びてきた骨ばった手が俺の肩を掴んだ。まるで逃す気がないかの様に。吐息が頬にあたる。俺の耳元で、男が囁く。
「あなたは私をいつまで待たせる気だ」
村雨の言葉たちを頭の中で整理していく。ぐるぐると洗濯機の中みたいに回る思考の先で、一つの答えに辿り着こうとしている。村雨礼二という男が相手でなければ、とっくの昔に辿り着いていたような答えが。
「どれだけ回り道をすれば気が済むんだ、あなたは」
「ま、待てって!」
村雨の顔が近い。それでも、キスされた時よりは遠いが。いや、違う。そんな話がしたいんじゃない。じゃなくて、そうじゃなくて。
「オマエ、俺の事が好きなのか……?」
村雨の目がゆっくり見開き、それから、睨むように細められる。苦虫を噛み潰したかのような、忌々しい表情へと、たっぷり数秒かけて歪んでいく。
「……マヌケが」
地獄の底から響いているのかと錯覚してしまうような、地を這う低音で罵倒された。しかし、今の俺はそれどころではない。
「まて、考えが追いついて」
「時間はもう充分、与えてやった」
村雨の手が肩へと食い込む。喰われてしまう、という緊張が俺を支配し始める。
「あなたに選択肢は無い」
何かが落ちる音がした。ガタン。俺か村雨、どちらかのスマホか何かが、座席の下へと落ちたのかもしれない。だけどその、落ちた何かを拾ってやれるほど、俺たちには余裕がなかった。
キスをした。この前みたいな、ではなく、お互いの距離が近すぎるほどの。前とは違って熱すぎるほどの手が、俺の後頭部へと回されている。まるで縋るように。まるで追うように。お互いの触れている唇から、舌から、他人の熱が中へ中へと滲んでいく。けど、それが不快だとは感じなかった。
「……っ、は」
呼吸。それを、食われる。選択肢どころか、自由だって与えてくれはしないようだ。
「まて、って」
「煩い」
一体全体、誰がこんな展開を予想できた。
不意に真経津が脳裏を過ぎる。アイツは全て分かった上であんな事を聞いてきたのか。
「よそ見をするな」
鼻にピリリと痛みが走った。村雨に噛まれたのだ。
「は、あっ⁉︎」
「散々、私を見なかっただろ。今は私だけを見ろ」
「かっ」
叶みたいな事を言うな、と出かけた言葉を無理やり飲み込んだ。が、全てお見通しらしい村雨は「マヌケめ」と言わんばかりに俺を睨む。俺の後頭部を這う手に力が籠る。もっとずっと、境界線が曖昧になっていく。コイツ、こんなに嫉妬深い人間だったか?
「む、っ」
口を塞がれ、舐られ、噛まれ、押され、なぞられ、追われ、嬲られ。村雨によって温度を上げられた熱が、脳の奥深くを苛む。視界が涙で滲んでいるのは、生理現象だろうか。
「……っ、ふ、ぁ」
酸素が脳に行き渡らず、なんだか陸の上で溺れてるみたいだ。目を開ければ見慣れた男とキスをしているし、目を閉じれば頭の中が溶けていっているのを自覚してしまう。
「ぅ、ぁ……ん」
鼓膜に届く自信の声が、まるで他人のように聞こえる。これは本当に俺の声か。俺は、いつの間に村雨をここまで深く受け入れるようになっていたんだ。
俺は、村雨たちを、村雨を、友達だとは思ったことがない。そんな関係は今も昔も望んでいなかったし、仲良くするってのは俺にとってはイマイチ理解できないモンでもある。じゃあ鬱陶しかったのかと問われると、それも違う。居心地がいいなんて感じた事はなかったが、適度に羽が休まる場所だとは思っていた。真経津の言っていた「遊ぶのが好き」が、俺にはよく分からない。だけど案外、悪くないってのも、本音だ。
ぐぐ、と舌に歯を立てられ、思考から現へと連れ戻される。叱責なのだろう。自分を見ろ、という。
「ん、ぁ、……さめっ!」
酸欠なのも、一方的に嬲られるのも、そろそろ我慢の限界だった。選択肢は与えないなんて言っていたが、俺は自分の意思でテメーを、村雨を選んでやる。与えられた選択肢に甘んじるほど俺はもう、弱くない。
残っていた力を振り絞り、俺を食んでいた村雨を押し退けれる。薄暗いなか、口から垂れる銀糸が卑猥だった。静かな車内に二人分の呼吸だけが聞こえる。
「……」
「……か?」
「え?」
村雨の声が聞こえなくて視線を上げれば、不安そうな目と目が合う。こちらを窺うような、初めて見る表情だった。
「……む、村雨?」
熱を持った手が、俺の頬を撫でる。
「……私の家に来るか?」
散々しておいて今更、妙にしおらしく聞いてくる村雨になんだか可笑しくて。思わず吹き出すように笑ってしまった。オマエさっき、俺に選択肢は無いって言ってなかったか。
「気が変わった」
「獅子神……」
「村雨、テメーになら、俺を解剖させてやっても……いい」
無機質な家の扉を開けば、薄い背は部屋の奥へと招いてくれた。
「上がるといい」
「……ああ」
今まで俺は、どうやってこの家へ上がっていたのだろうか。
当たり前だった日常が当たり前でなくなったのは、なんだか不思議な居心地の悪さがある。だが、不快じゃない。
「何か淹れよう。リクエストはあるか」
「コーヒーしかねえだろ、テメーの家は」
ふ、と村雨が笑う。顔を見なくても分かった。ずっと前から、難しい事なんて考えなくて良かったのだ。今、そんな単純な事に気がついた。
「……村雨」
手を伸ばした。触れたかったのだろうか。わからない。ただ伸ばした手は、先を進む村雨の手を掴んだ。
「……なんだ」
「ずっと考えてた。お前の事を、だ」
「その割には何も分かってはいなかった様だが」
すう、と肺の奥まで息を吸う。それから、不必要な分だけ息を吐いた。
「普通の奴はあれが告白だとは思わねえよ」
あと、お前が誰かを愛せるなんて、俺は知らなかったぞ。
「そうか」
俺の指摘を受けるも、村雨はどこ吹く風だ。そんな態度に呆れるも、まあ村雨らしいか、なんて納得した。この男はずっと、こんな感じだ。
「獅子神」
名前を呼ばれ、止まった。手を離しそこねた俺に構わず村雨が振り返る。真剣な面持ちで向き直られ、呼吸が一拍、止まった。
「では改めて言おう」
両手で肩を掴まれ、思わず唾を呑む。
「言うって、何を」
「告白だ」
「はあ?」
「心して聞け」
「お、おい……」
俺の静止も聞かず目の前の男は深呼吸を何度か繰り返す。それから、薄い唇が告白の為に動いた。
「……アナタを愛している」
数秒、沈黙。それを破ったのは、やはり村雨だった。
「……どうだ?」
「……いや、棒読みじゃねえか!」