骨を喰む
歪な形をしていた。他の皮膚とは違い、そこだけは色素が薄く、盛り上がっている。指で触れてみれば確かな凹凸を感じ、異質さがより一層伝わった。それはまだ若い、裂傷の跡だった。
獅子神の手にできた傷跡は、初めて出会った時からあった。あまり先の鋭くないナニカで引き裂かれ、そして丁寧な手当てをしてやらなかったのだろう。歪な傷跡は痛々しい跡となって男の手に残ったようだった。
やたら声の大きいこの男は、事あるごとに傷へと視線を落とす。その様子から直感的に、ああ、この男も真経津晨とゲームをしたのだな、と悟った。
その傷を疎ましく感じ始めたのは、いつもとはルールの違う賭博に参加させられた後だった。四人で行われるタッグ戦は、珍しく私に色んな過去を思い起こさせた。だから疎ましいと感じる感情も、一時の昂りから来る副作用のようなモノだと診断したのだ。
その感情は、寄せては返す波のように、私の心を騒がしていく。
傷跡の残る手が、私に触れる。その度に、心の奥に火が灯る。点々と燃えていく火を隠そうにも、それらはかき消えることが無い。頭の中で傷の残滓が、私以外に付けられた印が、果てのない欲を蝕んでいく。触れられた場所が熱い。その手に触れられると、熱い。
「熱い……」
「熱でもあんのか?」
私とは温度の違う手が、額へと触れる。それから、顔色を伺うように藍色の瞳が覗き込んできた。
「大丈夫だ。体調に問題はない」
額に触れる手を煩わしく思い振り払う。私に素っ気なくされた獅子神の手は、役割を失いしばらく宙を漂ってから布団の上へと置かれた。
「獅子神」
寝ていた体を軽く起こし、隣でちょっとだけ機嫌の悪くなった顔に手を添わす。獅子神は、驚いたように肩を跳ねさせたが、私にバレていないと思ったのか、それともバレてもいいと考えたのか、無表情で「なんだよ」と答えた。
「顔を見せろ」
「見せてるだろうが」
タレ目がちの目がこちらを睨む。凄みが無いのは、ここが賭場ではなく私の寝室だからだろうか。手は添わせたまま、親指で唇の膨らみをなぞる。獅子神は、何も言わず私の行動の先を待っているようだった。
「目を閉じろ」
命じれば、一拍遅れて瞼が閉じられた。今、首を絞めてしまっても、獅子神は抵抗しないかもしれない。なんて、くだらない考えが過った。
布団の上に置かれたままの手に触れる。閉じた瞼はそのまま、唇だけが何か言いたげに震えたが、なに一つとして言葉にはならなかった。布団の上、歪な傷跡の残る手を取り、そっと口づけた。
「っ」
「痛いのか」
「なわけあるかよ、もう塞がってるだろうが」
「そうか」
手の甲に唇を付け、薄い皮膚を噛んで引っ張ってみせる。骨と、筋と、硬い皮膚と、少しばかりの肉。このまま噛みちぎれば、血が溢れてちょっとした傷になるだろう。その時、獅子神はどうするだろうか。真経津とのギャンブルで負った古傷みたいに、歪な形で残すのだろうか。いや、マヌケだが合理的な男だ。意味のない傷に価値を見出す訳がない。では、私はどうすれば上書きすることがきでるのだろう。
「痛えって」
私を注意する声にはっとした。と、同時に、随分熱中して噛んでいた事に気が付く。我ながら幼稚な思考に陥っていたな。
「すまない」
閉じていたはずの瞼は開かれていた。藍色の瞳が困ったように私を見ている。私はなんて弁明したらいいか、言葉を詰まらせてしまった。
「気になんのか?」
ヒラヒラと眼前で手を振られ、心の奥で何かが首をもたげた。怒りだろうか。それとも悔しさか。
「なぜ、傷を治さなかった」
「あ?」
「手の傷は、どうして治さない」
「だから何回も言わせ」
片手で顎を掴み、言葉を続けようとする口を口で塞いでやる。そんな下らない言葉を私が聞きたがっていた、と思われるのが癪だった。私は、どうして私を優先しないのかを聞きたかったのだというのに。
「ん、ふ、ぁ……」
鼻に掛かった甘い息遣いは私だけしか知らないというのに、屈辱を抱えながら敗北を受け入れる姿を、私は知らない。自身の血に汚れながら、憎悪とプライドで燃え滾る視線を、私は知らない。
全てを知りたいという欲が傲慢な事だと理解していても、抗えないほど本能が飢えている。
貪って、貪って、貪ったとしても、その先にあるのは獅子神という人間の一面でしかない。それは全てではない。全てが欲しい。私を裏切らないほどの、全てが。
熱を孕んだ手が首へと回される。舌を押しつければ、控え目だった口が徐に私の舌を迎え入れた。柔らかく、温かい舌が私の舌に絡みつき、離れ、また絡みつく。互いの境界線が曖昧になっていくのが舌の先から伝わる。
「……ぁ、あ、っ」
鼓膜に届く声が甘い。一度口を離し、角度を変えてまたキスをした。口蓋を舌でなぞり、悪戯に喉奥へと深く差し込んでやる。嘔吐反射から震える喉に指を這わせれば、絞首を想像したのかクッと獅子神の喉が鳴った。陸で溺れそうになる獅子神を押さえつけ、深く、深く、貪っていく。
唾液が一筋、獅子神の口から零れ落ちた時だった。ピリッと首の裏に痛みが走り、反射的に獅子神から離れた。
「む、らさめ、っ……」
私に組み敷かれた獅子神は、ゼエゼエと荒い息遣いを繰り返している。肩で息をする男が、熱に絆され溶けた目で私を見上げていた。無意識に、口角が上がる。密やかな感情を咄嗟に手で押さえ、私は目を伏せた。
「……ふ」
指の間から笑みが漏れそうになる。酸欠気味の脳みそで、気分が高揚しているのが分かった。
ビリビリと首の裏が痛い。痛みのある場所へと手を回せば、ヌルリとした液体がついていた。皮膚が裂けている感触が確かにある。獅子神の爪が引っかかり皮膚が裂けたのだろう。手を下ろして見れば、やはり真っ赤な血がついていた。
「ハ、はァ」
獅子神の目が涙で潤んでいる。水の膜を隔て、藍色の瞳が揺らいでいるのが綺麗だと思った。
「テメェ、ッ、調子、乗んなッ……!」
心のどこか、満たされなかった部分が、獅子神の息苦しさに歪んだ顔を見て少しだけ満たされた気がした。まだ息を切らす獅子神の抗議に、嘘をつく。
「……すまない」
少しだって心にも思ってもないことを。だけど言葉は、驚くほど滑らかに私の口から滑り落ちた。
獅子神と出会ってから、私は随分と嘘が上手になった。
昔から他人に強く興味を持ったことがない。だから、これは一過性の病なのだと思う。
寝息が聞こえる。獅子神がやっと寝たのだろう。先ほどまで半ば強要していた行為を頭の中で辿っていく。この関係も、この行為も、随分と慣れてきた気がした。しかし行為の最中に感じる、自分の中の加虐的な欲望を抑えるのはまだ不慣れだった。
綺麗に手入れされた金髪を手櫛で梳く。柔らかな毛は、いつだって私の指を無防備にも迎え入れてくれた。
セットされていない髪は私の指にされるがままで、弄ばれた毛先があっちを向いたり、こっちを向いたりと忙しない。一房、手に取り口に含んでみる。甘いような、薬品のような、変な味がした。
不意に獅子神の白い耳朶、柔らかい皮膚の上に赤い点線を見つけた。行為の最中、気分が昂った私によって噛まれた跡だと、すぐに分かった。
耳朶を噛んだ記憶はあったが、血が滲むほど強く噛んだ記憶はない。それに行為中の獅子神が痛がる素振りも無かった。無意識の内に強く、それこそ皮膚が裂けるほど強く噛んでいたのだとしたら。
私は自分の中でとぐろを巻く感情に、思わず目を逸らした。
まだ瘡蓋になりきれていない跡を指でなぞってやる。抗議か、それとも痛みからか、寝ている獅子神が眉根を寄せて唸った。
「痛いのか」
返事はない。
返事が欲しかったわけではない。
「痛くはないのか」
私がずっと欲しいのは。
「……くだらないな」
すっかり夢の中の住人となってしまった男の頬を無遠慮に触っていく。眠りかけていた支配欲が目覚めそうだったが、見なかった事にした。代わりに最後、と頭を撫で、後を追うように私も眠った。
獅子神が変な事を言い出したのは翌日、陽が高く上る昼過ぎだった。曰く、私が嫉妬深いと言う。面白くない話だ。
「私の何を見て言っている」
「じゃあ、人の指、思いっきり噛んだこと謝りやがれ」
見ろ、と獅子神が絆創膏の貼られた指を私の眼前へと突き出してくる。つい先ほど、キスをした流れで指を噛んでやったのだ。その際に力加減を間違えたのか、私の口から離れた獅子神の指は、ざっくりと切れていた。
「折れてはいないようだな」
「いや、素直に謝れよ」
「すまなかった」
「……」
謝ったというのに、獅子神は黙ってしまった。歪な沈黙が流れる。
「……」
「……」
「村雨」
「なんだ」
こちらを睨むような視線に顔を逸らすが、獅子神は構わず続けた。
「俺も噛ませろ」
数秒、頭の中で言われた言葉を組み立て直す。今、獅子神は、私の体のどこかを噛ませろ、という意味の事を言ったのか。
「……目には目を、という事か」
少し間を置いて獅子神が答える。
「まあ、毎回、噛まれる身にもなれって話だ」
「いいだろう」
眼鏡のズレを直し、獅子神に向き直る。垂れ目がちの目は私をまっすぐ見据えたまま、何かを企んでいる色をしていた。
「獅子神、あなたはどこが噛みたい、とか希望はあるのか」
「あるわけねえだろ」
「なら左手にしてくれ。小指ならそこまで支障はないだろう」
「わかった」
左小指を突き出せば、厚みのある手が品定めをするように私の指を摘まんだ。
「……」
浅い深呼吸が獅子神から聞こえ、緊張しているのだと察した。どうしてか私も、呼吸が浅くなる。
「一思いにやればいい」
「黙ってろ」
「犬歯に当てる感覚で、上と下の歯は少しズラしながら噛むといい」
「いや、だから黙れって」
黙れ、と注意されても、私は黙ることが難しいと感じていた。
心が逸る。先の展開が待ち遠しい。見たいと思った。心の底から。獅子神が私に跡をつけるのを。私にしか分からない印が欲しいと、心臓が煩く騒ぐ。
「獅子神」
「……」
獅子神が私の指を咥えようと口を開いた。赤い舌が見え、私の脳は勝手に、その暖かさを想像した。人の体内の温かさは知りすぎているほど知っていた。脈動する内臓の暖かさも、流れる血の温度も、どれも私の体に馴染み深い温度だ。私はその暖かさが好きだった。
左小指、皮膚を隔てた中節骨に歯が当たる。指を咥える獅子神を見下ろし、いずれ訪れるであろう痛みを想像した。歯は皮膚を裂き、裂けた指からは血が噴き出る。三十七度に近い私の血は、獅子神の唇を汚すだろう。
獅子神の舌が私の指に触れる。温かい舌を小指で軽く押さえてやれば「やめほ」と、何を言っているのか分からない注意をされた。それが可笑しく、性懲りもなく何度も指で舌を押す。
「ふ、はは」
過剰な高揚感で頭が痛い。叫んでもいないのに喉がヒリつくのは、口を開けば吐き出してしまいそうになる欲を塞き止めているからか。
「なに笑ってんだよ」
私の指から口を少しだけ離した獅子神が、訝しむような目で私を見上げる。
「笑っていたか」
そう問えば、呆れたような声が返ってくる。
「自覚ねえなら重症だな」
「医者みたいな物言いだな」
「医者、なあ」
ニヤリ、と先ほどまで指を咥えていた口が笑う。
「村雨、オメーが俺を噛むタイミングがパターン化されてるの、知ってたか?」
「……は?」
聞き返せば、笑みを崩さないまま獅子神が返す。
「さっきの話だ。テメーは嫉妬深いってやつ」
「先ほどの、あなたの戯言か」
「気付いてないのかよ」
先を促すように肩をすくめてみせた。獅子神が続ける。
「オメーは自分から仕掛けた時に限って噛んでくんだよ」
「どういう意味だ」
「あー、だからだな」
獅子神が頭を掻き、言い辛そうに目線を彷徨わせた。
「……俺が誘った時は全然、そんな素振りすらねえけど、村雨、テメーが自分で誘った時だけは、俺のこと執拗に噛んでくるんだよ」
相槌も返事も、すぐには返さなかった。言われた言葉をゆっくり咀嚼していく。無自覚とはいえ自分の単純すぎる行動心理に目を覆いたくなった。思い当たる節があったからだ。
「俺はこれを、一種の試し行為だと思った」
「……説明しろ」
「オメーの中で何か引っ掛かるモンがあるから、俺に負荷かけて反応を伺ってんじゃねえのかって、そう考えた」
「あなたの反応から、私が不安要素を排除しようとしている、という事か」
「そういうこった」
羞恥で私の顔は一気に火照り、すぐに冷たくなっていった。死後硬直のように手足が固まる。だけど頭の中は、煩雑で騒々しかった。
袋小路、行止まり、立ち往生。今の状況を表す単語が頭の中をぐるぐると回る。普段の自分であれば、昔までの自分であれば、絶対に冒さなかったミスだ。
思い当たる節はあった。いやずっと、それは自覚している事だった。
息を吸い、深く吐く。これ以上の足掻きは無意味だと感じ、言い訳の代わりに、ずっと聞きたかった事を聞いた。
「……あなたは痛くなかったのか」
「はあ?」
視線が深く重なる。藍色の瞳が私を映している。
「真経津とのギャンブルで負った傷だ」
「クソ痛えに決まってんだろ」
「……私は、嫉妬している」
「知ってる」
もう一度、息を吸い、吐いた。
「嫉妬しても意味が無いのは分かっている。それに、答えも分かっている。こんな馬鹿げた行為を止めることだ。だが私は、それを頭で理解していても、本能があなたに跡を付けたいと求めている」
「随分とらしくねえ事言うじゃねえか」
らしくないのは、もうずっと前からだ。らしくない私が、らしくない事を聞いた。
「どうしたら私は跡を残せれる」
「……俺も考えてた。どうすればオメーが安心するのかって」
私の指先に柔らかな唇が触れる。温かい。私は、この温度が好きだ。
「受け入れるだけじゃ満足しねえ。いや、受け入れるのは正解じゃなかった。お前の行為を受け入れるのは選択の一つであって、解決の為の答えじゃない」
「……獅子神」
「変な顔してるな。わかるんだよ。俺もずっと……」
「ずっと、なんだ」
獅子神が目を伏せる。
「ずっと、満たされないと思ってたからな」
私の指に触れる唇の輪郭を、描くようになぞってやる。獅子神のまつ毛がふるふると震えた。
「あなたは今、満たされているのか」
ふ、と形のいい唇が笑みを溢す。聞かなくても答えはわかった。
「俺が今、満たされてねえように見えるか?」
自信に満ちた目が私を見上げる。深い藍色が綺麗だった。
「……村雨、俺は、オメーに跡を付けてやれば、安心するんじゃねえのかって思った」
「安直だな」
「言ってろ」
赤い舌が私の指を舐める。生暖かい温度が皮膚を刺激していき、内に潜む期待が胸を締め付けた。獅子神の白い歯が、私の小指を食む。中節骨に感じる歯は硬く、皮膚ぐらいなら容易く食い裂いてしまいそうだ。
「ん」
獅子神の目が、いいか、と問うてくる。答えは決まっている。聞くまでもない。なのに聞いてきたのは、らしくもない雰囲気の所為か。
「私は、早く安らぎたい」
痛みは一瞬ではなかった。ギリギリと皮膚を虐め、骨が折れてしまうほどの圧がかかる。奥歯を噛んで耐え、鼻で浅い呼吸を繰り返した。長い痛みの先で突然、ブツリと何かが切れた。
「……っ」
熱い。指が熱い。燃えるような熱が、小指から体の奥へとジクジク蝕んでいく。裂けた皮膚から体温が上がっていく気がした。私の血は今、どれほど熱くなっているのだろう。
「痛えか?」
口を赤く汚した獅子神が私を労わるように聞いてくる。私は皮膚の裂けた指を眺めながら、なんだか眠たくなっていた。
「……痛いに決まっているだろ、マヌケ」
目を閉じれば、睡魔はすぐ隣にいた。
「おい、手当すんぞ」
「いい。構わん。このままにしろ」
ガキかよ、と獅子神が困った声で叱る。そんな声も、私の拒否も聞かずに手当を始める手も、指を汚す血の温かさも全て無視し、私は眠りへと落ちた。