花のにおい、花をかざる


 呼び止めたのは、私が知らない匂いがしたからだ。
 匂いは花のような甘ったるい香りで、男性がつけるには少し甘すぎるように感じた。だから余計に気になったのだろう。
 難しい顔でパソコンと睨めっこしていた獅子神が顔を上げ、こちらを見る。その様子を目で確認してから、いつもと違う香水をつけているのか、と聞いた。獅子神は直ぐに自分の事だと理解し、貰い物だ、と簡潔に答えた。
「貰い物?」
 次の質問は「一体誰に貰った」という意味だった。しかし私の質問の意図を理解できなかったようで「この前貰った」と間違った解答を返される。
「香水を贈ってくる人間がいるのか」
 もう少しだけ、質問の輪郭をはっきりさせてやる。しかし獅子神はまた的外れな答えを口にした。
「あのなあ、俺も人付き合いってのがあんだよ」
 人付き合い、の部分に引っかかっているから聞いているというのに、勘の悪い獅子神は困ったように頭を掻く。困っているのは私の方だぞ。
「……普通、男に香水を贈るだろうか」
 困り顔にそう付け足せば、漸く理解したらしい獅子神が、分かりやすく驚いた表情へと変わる。それから「いや」と否定の言葉だけが飛んできた。
「いや、いや、あのなあ」
「別に、あなたに対して心配はしていない」
「いや、お前なあ」
「ただ、あなたの無神経さに呆れている」
「いや、ヤキモチじゃねえかよ」
 ヤキモチ、に引っかかったが、弁明も釈明も無意味だと感じ、やめた。これ以上は何を言っても悪あがきだ。
 何も言わなくなった私に、獅子神がもっと困った顔をする。気の利いた言葉を探していのか「あー」だとか「その」だとか、歯切れの悪い言葉だけが聞こえてきた。
「マジでただの、仕事での付き合いだからな」
 何故だか獅子神の方が言い訳がましい事を述べ始め、私はこれ以上の発言を諦た。代わりに、困り果てた獅子神に食事を作れと無茶振りをし、その場の空気をわやくちゃにさせた。
 
 次の日、午後から獅子神に会えば、香水はいつもの香りに変わっていた。
「私の所為か?」
「……」
 何も言わなかったが、獅子神の顔を見れば理解できた。私が駄々を捏ねたから、香水を変えたのだ。もしかすると、貰い物の香水は捨ててしまったのかもしれない。悪い事をした。
「……獅子神、私は」
「別にテメーの所為じゃねえよ。俺も気に入らなかっただけだ」
 そう言っていつもの自信に満ちた笑みを返してくる。そういった言動が余計に罪悪感を刺激するのだが、獅子神は分かっていないようだった。それとも、これが一般的なコミュニケーションなのだろうか。人より鼻が効くせいで、いらない情報まで拾ってしまう。
 結局、それ以来香水の話はしなくなったし、獅子神が香水を変えることは無くなった。

 ◆

 見慣れない花束が、村雨の家に飾ってあった。
 花はリビングに入ってすぐのテーブルの上、どこから出してきたのか、文庫本ぐらい高さのある角柱のガラス花瓶に生けられていた。
 薔薇とカーネーションという、どっちが主役だか分からない組み合わせの花束は、村雨邸では浮いた存在だった。ここの家主は花なんて愛でる暇があれば、手術する時間に費やすからだ。
 花の開花具合は種類によってチグハグで、薔薇は花弁の先が茶色くなり始めている。最後にこの家を訪れたのは五日前だ。その時、花はこの家になかった。なので四日前から昨日の間に、この家のリビングへ飾られたのだろう。茎や葉の処理が丁寧なところを見れば、生けたのは村雨自身だ。だが、この花を買ったのは村雨ではないだろう、と推測した。花の趣味が悪かったからだ。
 その花について、俺は特に触れることはしなかった。村雨にだって人付き合いはあるし、仕事で関わる人間も、俺と比べるまでもないぐらい多いはずだ。それにアイツは医者という仕事を生業にしている。常に誰かに何かを与え、与えられているんだろう。
 だから特別、触れることはしなかった。
「獅子神」
「なんだ?」
 名前を呼ばれ、キッチンで何やらゴソゴソと作業していた村雨の元へと近づく。カウンターキッチンの奥、床下収納の中からワインを何本も取り出している村雨が視界に入った。
「欲しいものがあれば持っていくといい」
 そう言って、今日も今日とて青白い顔をした村雨がこちらを見上げる。
「っつっても、アルコールは控えてるからな……」
「家で雇っている彼らにやればいいだろう」
「あー……」
 脳裏に園田たちの顔が浮かぶ。村雨邸にあるワインだから上等な物だろうし、園田達ならきっと大喜びだろう。だけどあまり飴を与えすぎるのも、なんだか可愛がってるみたいで癪だ。それについ最近、貰い物のウィスキーを園田達にやったところだ。
「……二本だけ、貰うわ」
「紙袋を出そう」
 どういう訳か時々、村雨はこうやって俺の家の雑用係に対し親切にしてくれる。その親切心を俺にも分け与えればいいものを。まあいいけどな。
「村雨、オメーは呑まねえのかよ」
「呑むとしても、こんなに沢山はいらんだろう」
 村雨の足元には、赤や白のワインボトルが十本ほど並べられていた。まるで酒の花畑だ。
「まあ、確かにな」
「ついでだ、一本開けよう」
「え?」
 足元にあった一本を村雨が胸の高さまで抱える。今から呑もう、という事なのだろう。こんな昼間っから。
「いや、俺は」
 今制限中だから。そう続けたかったが珍しく村雨が悲しそうな、実際にはいつもの仏頂面だったが、そんな目をしてこっちを見てくるものだから「まあ、いいけど」なんて返事をしてしまった。
 
 コルクからも芳醇な葡萄の香りがする。血のように真っ赤な、なんてありきたりなイメージを期待していたが、注ぎ口から現れた赤は存外明るい紅色だった。重そうなボトルからグラスへと、ワインが注がれる。酒の匂いが一層濃くなる。丁寧に注いだワインを、村雨が観察するように見る。何を見ているのか俺には見当もつかない。それが少しだけ、悔しい。
 骨ばった手がグラスを此方へと手渡す。軽く礼を言って受け取れば、久々に嗅ぐ酒の匂いに脳が少しだけ活発になる。高そうだな、と無味乾燥な感動が浮かんで、消えた。
「座ったらどうだ」
 いつの間にかソファーの、いつもの指定席へと腰掛けていた村雨が隣の席を促す。指示通りの場所へと座れば、想定よりも近い場所へと座ってしまったようだった。互いの肩が当たり、グラスの中のワインが揺れた。
「もうちょっと横いくわ」
「構わん」
 少しだけ浮かした腰を、村雨の長い手が捕まえる。そのまま、ここにいろ、と強めに引っ張られ大人しく座り直した。
「狭くねえか?」
「私は構わない、と言った」
「はい、はい」
 なら従いますよ、と互いの肩が当たるものお構いなしにグラスへと口づけた。
 グラスの中、赤い酒が水面を揺らして傾く。舌より先に、ワインの甘い匂いが鼻腔へと届く。それから、独特な辛さの香味と、果物の風味が口の中に広がった。高い酒だな、とさっきと同じ面白味のない感想が浮かんだ。それと、度数が高そうだな、とも。
「テメーの家にあるだけあって旨いな」
「そうか」
 ぶっきらぼうに感じる村雨の言葉に、まあいつもの事かとグラスの中身を呷る。度数の高いアルコールは喉を焼きながら、確かな酔いを残して消えていく。少しだけ、顔が熱い。
「久々に飲むと酔いやすいな」
「そうか」
「……村雨?」
 視線を隣へ寄越せば、青白い顔がサラサラとワインを呷っていた。
 一見、アルコールに対して余裕のある動作だったが、俺の中で引っ掛かるモノがあった。
「……ワイン好きなのか?」
「人並み程度にしか呑まんな」
「人並みって」
 人並みの分量がどれ程なのかは知らない。これは俺の社会経験値の話ではなく、単純に統計が取れない話だからだ。強い奴もいれば、弱い奴もいる。コーカソイドやネグロイドはアルコールに強いと言われているし、逆にモンゴロイドは弱いと言われている。統計を取るにはあまりにも個体の素質に差が有りすぎるし、アルコールの質も酒によって変わってくるだろう。一応、厚生労働省からは多くても一日二十グラムが理想値だとか、なんだとか出ているが、人並みの意味からは外れる。だから、こんな曖昧な事を答えるという事は、顔には全く出ていないが村雨が酔っているのだと確信した。
「おい、オメーもうやめとけって」
「何故だ?」
「そういう面倒くさい絡み方してくるからだろうが」
「私は面倒くさいか?」
「今、面倒くさくなったぞ」
 ほら、だからワインをこっちに渡せ、とグラスを引っ張るが村雨は手放そうとしない。コイツにこんな握力があったとは。酔った村雨がワインを手放さないまま、仏頂面で続ける。
「獅子神、私は面倒くさいか」
 顔色の変わらない村雨が俺の腕を掴む。
「ちょ、お前……」
「獅子神」
「……はあ、同じこと聞いてくんなよ。面倒くさくねえから、グラス渡せって」
 グラスを引っ張るが、微動だにしない。得体の知れない焦りが俺の手を伝う。何か、見落としている気がする。
 そんな俺の焦りを察したのか、さっきまでと温度の違う声が俺の腕を掴みながら問う。
「何故、花の事を聞いてこない」
「は?」
 花ってなんだ、と疑問符で思考がいっぱいになる。コイツなんの話してんだ。
「あなたに目はついていないのか。花が気にならなかったのか?」
 村雨の切れ長な目が俺を睨む。そこで漸く、この家に来た時に気がついた、角柱の花瓶に生けられた花を思い出した。思い出したが、どうしてその話をしているのか、までは分からなかった。
「花って、あれか?」
 テーブルの上を指差せば、村雨は静かに首肯する。
「あなたは、あの花が誰に貰っただとか、気にならないのか」
「誰にって……」
 気にならない、と言ったら嘘だ。だけど聞けなかった。
 メガネを掛け直したのか、プラスチックの冷たい音が聞こえ、テーブルから村雨へと視線を戻す。村雨はずっと、不機嫌そうな顔でこちらを見ていたようだった。
「私が自分で買った花だとは、これっぽっちも思ってやいないんだろ」
「……」
「どうして聞かない。それとも、考えることを放棄したか?」
「……何が、言いたい」
「そのままの意味だ。あなたは私をどう理解している。いや、理解しておきながら、どうして考えていないフリをする?」
 質問、違う、これは尋問だ。今、篩にかけられている。何を。俺の気持ちを、だ。
 自分が村雨に抱えている感情が恋情なんだという事が、正直言ってわからない。顔を見れば世話を焼いてしまいたくなるし、電話で呼び出されればよっぽどの事がない限り会いに行く。だがそれが恋愛感情なのかと聞かれると、首を捻ってしまう。
 もちろん欲情はするし、誘われるとその気にもなる。熱を持った指先で触れられると欲しくなるし、言葉の一つひとつに期待だってする。だが性欲は恋愛にひっついて来る衝動ではないし、感情がなくたって欲情はする。
「……花の事」
 それに「誰から貰った花なんだ」なんて聞いてしまえば、村雨との関係が終わってしまう。そんな気がした。
「……聞いていいのかよ」
 言葉が喉でつっかえ、出た声が掠れた。喉が痛い。酒で焼けたか、それとも自分の感情に焼けたのか。視線が定まらず、村雨の横顔を盗み見したり、空になったワイングラスを確認したり、フローリングの床へ視線を吸われたり、ふらふらと視界だけが酩酊する。
「……」
 沈黙が、重い。
「……あー、やっぱ、い」
「獅子神」
 沈黙よりも重い声で名前を呼ばれ、俺の視線はワイングラスから動けなくなった。言葉を遮った村雨が続ける。
「私は前に、あなたの香水に文句を言っただろ」
「え」
 香水、と言われ何秒か遅れて記憶が蘇る。ああ、あれは確か、先月の事だ。知り合いから貰った香水をつけていたら村雨に無神経だと言われたっけか。忘れていた。そんな事もあったな。
「別に、俺のは構わねえけど」
「良くないだろう」
 村雨の強い口調に驚き、返事が咄嗟に出なかった。顔を上げればいつもの仏頂面に戻った村雨が居た。先ほどの不機嫌さは形を潜めているが、一端の感情すら読み取れなくなった村雨が、どうしてか怖い。酒臭い声が呟く。
「公平ではない」
 骨ばった手が一度、自身の長い前髪を掻き上げる。神経質そうな目が真っ直ぐ、俺を射抜くように見た。
「私は、あなたから他人の匂いがして嫌だった。あなたの事を独り占めしたいからだ。全てを知りたいと常々思っている。だけど私は、あなたを尊重している」
 待てよ水でも飲んで落ち着けって。そう言いたかったが、言えなかった。黙って聞いている事しかできなかった。これは会話じゃない。発言が許されていないからだ。
「あなたは、いつも聞きたそうにしている癖に、聞いてこない。それがいつだって不思議だ。花だってそうだろう。真っ先に気がついた癖に、自分の中で勝手に解決させて済ませてしまう。だというのに、間違った答えを導き出している。あなたは私の事になるといつも間違える。いっそ、何も考えずに聞けばいいものを。それとも、私がそんな事で愛想尽きるとでも思っているのか。だとしたら心外だな」
 止まらなくなった村雨を、俺はどうすればいいか分からなくなった。
 喋ることも動くことも出来ない俺に、村雨がそっと体を近づけた。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。緊張しているのか、俺は。
 触れていた肩はもう、村雨の胸に当たっている。細く長い指が俺の頬に触れ、確かめるように撫でた。まるで、そうだ、診察みたいな、そんな手つきだった。
「獅子神、私をちゃんと求めろ」
 会話がまた、尋問へと戻る。
 言葉が、正しい言葉が分からない。なんて答えればいい。なんて言えば怒られない。なんて言えば嫌われない。いや、どうして俺はコイツに怒られることや嫌われる心配をしている。嫌われたっていいだろ、愛想尽かされたって、別に構いやしないだろ。俺は何を危惧してやがんだ。
「む、村雨」
 凍りついていた唇がぎこちなく動く。そんな俺をじっと、村雨は静かに観察している。
「……俺は、正直言って、好きだとか、愛してるとか、分かんねえんだよ」
 何故か馬鹿正直に思っている事を言ってしまい、恥ずかしさから俯いてしまった。顔が熱い。自分で自分が分からなくなる。
「テメーの事も、好きなのか、良く分かってねえよ」
 村雨の顔が見れない。今、どんな表情で、どんな目で、俺を見ているだろうか。
 心臓の鼓動が速くなっていく。駆け足みたいな鼓動が、俺の胸を強く叩いている。
「なら」
 落ち着いた声が、俺の上へと降ってくる。避けることができず、言葉の先を待った。
「分からないなら、その判断を私に委ねればいい」
 見上げれば村雨が、嬉しそうに笑っていた。人を許す時の笑顔だった。
「獅子神、あなたの全てを私に預けろ」
 硬い指先が俺の頬を撫ぜ、首筋を辿っていく。無礼を働く手を俺は、叱ることも咎めることもできない。これは酒の所為なのだろうか、それもと酔っていた事自体が嘘だったのか。嘘をつく医者なんて、碌でもないな。
「私を見ろ」
 視線を合わせれば月のように静かな、形の綺麗な目と合った。
「村雨……」
 気がつけば、村雨は殆ど俺の体に覆い被さるようになっていた。皮膚を這う手は熱を持っていて、触れた唇は濡れていた。食われる、となんだか抽象的なイメージが脳裏を過ぎったが、抗うこともしないまま捕食のようなキスを許した。


top / main