月のない夜


 事実は小説よりも奇なり。とは、よく使われる言葉だ。だが、この言葉は正鵠を射ている。
 現実はフィクションよりも摩訶不思議で、ノンフィクションよりも不可解だ。まるで、全てが悪い夢なのではないか、と思えるほど。
 私達は毎日、夢と現実を行き来している。眠り、目覚め、また眠ることで日々をおくっているだろう。しかし、それが本当に夢であり現実なのだと、誰が説明できるだろうか。もしかすると、ずっと夢かもしれないのに。
 出鱈目みたいな人成らざる者というのは、案外身近な所に潜んでいる。現に、この私。私は人に近く、人ではない生き物である。いや、ある日突然、そういった生き物になってしまった、か。詳細は割愛させていただくが。つまり、人ではない生き物に私は成ってしまった。そう、まるで夢のような存在だ。
 どうしてか私は、陽の光を浴びると細胞が燃えて灰になり、生命活動に必要なエネルギーを吸血によって補い、ネギ属や香草といった植物の臭いに酷い嫌悪を抱くようになってしまった。いわゆる、吸血鬼などと呼ばれる御伽噺の存在だ。
 これだけでも摩訶不思議で不可解な状況だというのに、現実は戸惑う私を置いて混沌へと誘っていく。こんな風になってしまった私を、あろうことか獅子神は受け入れ、私を軟禁しているのだ。
 事実は小説よりも奇なり、どころか、もう魑魅魍魎だ。

 獅子神はだいたい、夜の八時に私を起こす。
 陽の光が一切入らない獅子神邸の地下、そこへ寝室を設けてもらった私は、獅子神が起こしに来るまで惰眠を貪って待っている。
 夜を迎えると、獅子神は地下へと降り、私を起こしに来る。鍵の掛かった木製の扉を開け、灯りもつけないまま私の寝室へと入ってくる。そうして、眠っている私の肩を揺すり起こすのだ。暗闇の中、囁くような声で「村雨、起きてんだろ」と。
 目覚めた私は、もしくは、目覚めたフリをした私は、獅子神に促されるまま地下を後にする。毎日、それの繰り返しだ。

 この時間帯は雑用係の二人もどこかへ帰った後のようで、大体は二人でのんびり、食事を摂ったり本を読んだり映画を観たり、と人であった頃と似た時間を過ごしている。
 よく似た時間だったが、明らかに前とは違っていた。
 それは言葉には形容し難い、ドロリとした貪欲な感情のように思えた。獅子神は、私が外に出ようものなら影のようにひたりと付いてき、私が口にするモノ全てを徹底的に管理し、私の身の回り全ての世話を請け負い、私に優しい言葉ばかりを掛けてくるのだ。歪であった。しかし、その歪さを受け入れなければならない程、私はもう普通には生きれなかった。

 変化してしまった私には枷がいくつか存在している。ひとつは日光に対する抵抗力の低下、ふたつめは吸血による生命活動、みっつめに敏感になった嗅覚、そしてよっつめ、鏡や写真に自身の姿が全くと言っていいほど映らないのだ。鏡の前に立てば、そこには誰も居ないように映り、写真に映れば虚無だけが現像される。私という実像が何処にも存在していない。まるで幽霊にでもなったようだ。

 夜、私を起こし終えた獅子神は、鏡に映らない私の為に身なりを整えてくれる。
 豚毛の櫛で髪を丁寧に梳かし、糊の利いた真っ白なシャツを着せ、よく磨かれた靴を履かせて、自分好みに作り上げるのだ。私はというと、自分が今どんな格好をしているのか確認のしようが無いのだから、獅子神にされるがままで。だから時々、その色は好きではない、なんて小さな嫌がらせをしてやる。まあ、そんな文句すらも獅子神にとっては細やかなもので、世話を焼く内のひとつになってしまっているが。
「体調、悪いところとか、ねえか?」
 私の髪を梳かしながら獅子神が聞いてくる。声は背から掛けらた。獅子神がどんな顔をして聞いてきたのか、私には確認すらできない。時刻は夜の八時十二分。今日も、いつも通りのスケジュールだ。
「不調はない。いつも通りだ」
 そうか、とだけ返され、また言葉のない時間が流れる。
 櫛が私の髪をすーっと通り、また、つむじに近い場所へ下ろされ、ゆっくりと梳かされてゆく。獅子神は、毎日熱心に世話を焼いていて飽きないのだろうか。
 良くはなかった。体調だ。本当は、体調はあまり優れてはいなかった。ただそれは吸血からくる飢えだったので、申告の必要はないとも思ったのだ。
「何か欲しいモンとか、あるかよ」
「必要なものは、無い」
 私より温度の高い指先が、項を掠めた。
「……なあ、さっきから嘘ついてんじゃねえって」
「……」
 ふ、と軽く息を吐き、目を瞑る。ほんの少しだけ考え、貧血気味だ、とだけ答えた。獅子神は軽い調子で、了解、とだけ。この「了解」に、一体どれほどの意味が込められているのだろうか。
 私が人ではない生き物になってから、獅子神は前より勘が良くなった気がする。前よりずっと、私をよく見ている。前よりずっと、私の言葉を聞いている。それが居心地悪くもあり、喜ばしくも感じていた。我ながら面倒臭い人間だと思う。いや、もう人間ではないのか。
「……よし、もういいぜ」
 そう言われ、両肩を軽く叩かれる。催眠から解けたように私は立ち上がり、軽く伸びをした。今日は濃紺のシャツに黒のスラックスと、全体的に暗い色味の服装だ。この色合いは、獅子神の最近のお気に入りらしい。
 関節を伸ばしたり曲げたり、としている私の背後で獅子神が準備を進めていく。手際のいい男が手袋、アルコール、綿、駆血帯、トレー、タオル、それから注射器と机上へと並べていくのを、どこか他人事のように見ていた。随分手慣れたものになってきたな、と関心半分、呆れ半分。
 器具を準備する音だけが、部屋に響く。会話はない。
 着々と獅子神邸のリビングに簡易な献血所が設営されていく。器具たちは規則正しく、カトラリーの用に並べられていった。そんな整頓された机へと近づき、椅子を引いて腰を下ろす。私に倣い、獅子神も椅子に座る。
 くるくる、と獅子神が自身の袖を捲っていく。筋肉質で素肌が露わになった腕を取り、肘枕へと乗せてやる。肘の前面に触れ、皮膚を素手で撫でた。獅子神の体温は高く、これなら直ぐに血を抜く事ができそうだった。
 血管を確認してから駆血帯を巻き、アルコールで二度ほど拭き取る。注射器を手に取り、ピアスのニードルに似た針先を確認した。
 私が準備をしている間、獅子神は興味深そうに私の手先を眺めているだけ。話しかけてくる事は無い。いつもそうだ。なので、こちらからも特別声を掛けはしない。
 ズッ、と針が皮膚を貫く。中を少しだけ引いてやれば、シリンジに真っ赤な血が流れ入ってきた。向こう側が見えないほど、濃い赤色。獅子神の血だ。
 針を抜き、赤に満ちたシリンジを宙にかざして見る。空腹とは違う飢えが、私の中に込み上げてくるのがわかった。欲している。
「ほら」
 いつの間に用意していたのか、獅子神が何も入っていないワイングラスを差し出す。それを受け取り、シリンジの中、真っ赤な血を注ぎ入れた。といっても、量はグラス底から二センチにも満たない。
「……随分と手慣れたものだな」
「まあ、テメーがこうなったのも、もう半年も前だしな」
「そう、だな」
 私は、まだ慣れていない、こんな時間。
 ワイングラスに口を付け、匂いを嗅ぐ。生臭い鉄の匂いがし、私の空腹はピークを迎えていた。緩く傾け、まだ暖かい液体を口の中へ迎え入れ、一気に飲み干す。酩酊に近い揺れが私を襲い、しかし揺れはすぐに治まった。先ほどまで強く感じていた空腹感も一緒に治まったのか、今は影すらない。
「村雨」
 名を呼ばれて顔を上げれば、獅子神がすぐ側、私の腕を掴めてしまうほど近くに居た。私より大きな手が私の腕を掴み、引き寄せられる。
「……離せ、獅子神」
「別に、直接でもいいだろ、もう」
「不衛生だ。それと、血を抜いた後に歩き回るのはよせ」
「採血程度の出血で心配もクソもねえだろ」
「……あなたは、どうして普通で居られる」
 はあ、と獅子神が不可解そうに眉根を寄せ、それから困ったように力なく笑った。
「……普通じゃ、ねえと思う」
「私は別に、あなたを軽蔑したりはしない」
「そうか……」
「立場が入れ替われば、私とて同じことをしただろう」
 どうだろな、と獅子神が笑う。
「テメーはすぐ解剖してきそうだけどな」
「……マヌケが」
 今度は私から、獅子神の体を引き寄せ、その背に手を回して抱きしめた。仄かに血の匂いがする。
「軽蔑してくれても、いい」
 獅子神が呟くように言った。私は何も答えず、言葉の続きを静かに待つ。
「俺は、オメーには悪いけど、少しだけ安心してる」
 深呼吸を一度、挟む。
「支配以外で誰かを縛り付けたことがねえから、どうすればいいかわからねえ。分からないのに、誰にもオメーを渡したくないって気持ちだけが肥大していく。抱えきれなくて、押し潰されそうなぐらいにな」
「あなたが一杯いっぱいなのは、見れば分かる、マヌケ」
 はは、と乾いた笑いが聞こえ、思わず顔を歪めた。
「目に見えるカタチで代償が有れば、どんだけ好きになっても許される気がするなんて……ガキみてえだよな」
「……それを支払ってるのは、私だがな」
「確かにな」
 また、困ったような顔で笑う。私は獅子神を困らせてばかりだ。
「だから、村雨。オメーが支払った代償を、俺にも背負わせてほしい」
 ぎゅ、と私の腕を掴む手に力が籠もる。
「オメーを手放さない代償に、俺の人生を捧げたい」
 きっと、どれだけ言葉を重ねても届きはしないんだろう。痛みがなくても側にいることはできるのだし、一緒に居ることに許可は必要ないのだと。
 しかし、安心を私の変化で支払えるなら、これでいいのかもしれない。私が人でない生き物に成ることで、獅子神を私に縛り付けることが出来るなら、安いものだ。
「私はギャンブラーではない」
「……知ってる」
「だから、ゲームが成立しないあなたの賭けに、乗ってやってもいい」
「……ああ」
 私も、獅子神を先よりも強く抱きしめた。
 私はまだ、血の味にも、肉で満たされない飢えにも、陽の光に弱い体にも、どれにも慣れてはいない。不便だと感じるし、時々、抑えきれない程の無力感につい、獅子神に嫌なことを言ってしまう。
 だけど獅子神の心を私の中へ閉じ込めてしまえるなら、人ならざる者になることを受け入れてもいい。そう、思うのだ。


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