あなたとはちがう温度
『夕方までに帰れそうにない』
いつもと変わらない声のトーンだったが、微かに疲労が滲み出ているのは状況から見ても明白だった。数回、疲れた声に相槌を打ち、電話を切った。
一週間ぶりに会おう、と提案してきたのは村雨の方だった。最近、真経津の家にも顔を出していないものだからギャンブルでもしているのかと思っていたが、どうやら仕事が忙しかったらしい。医者の仕事、と聞いても手術だとか診察だとか、そんなイメージしか湧かないが案外事務仕事も多いのだろう。そう推測したのも、開きっぱなしのノートパソコンに分厚い書籍、書類や手紙の類で乱雑したリビングの惨状を目の当たりにしたからだ。
俺がどうして村雨邸の悲惨なリビングの状況を見る事ができたのかというと、随分前に村雨から無理やり渡された合鍵を使い、家へと上がったからだ。会うために連絡を待つよりも、村雨の家で待ってた方が効率が良いだろう、と考え本人の許可を得て家に上がったのが大体の経緯だ。決して、早く会いたいだとか、飯でも作ってやれば喜ぶだろうとか、そんな気持ちからではない。
村雨邸のリビングで唯一、荒地になっていないソファーへと荷物を置いた。今夜は帰らない、と園田には伝えている。なので着替えと、仕事用のパソコンを持ってきていた。それと、来る途中に寄ったスーパーの荷物もソファーへと置く。村雨からは何も聞いていないが、この家の冷蔵庫に期待はしていなかった。
ソファーへと腰を下ろしノートパソコンを開く。溜まっていたメールに目を通し、何件かメールを返せば、シャットダウンを押してまたカバンの中へと仕舞い込んだ。
仕事や家事についてのタスク表は雑用係に渡している。何かあれば直ぐに電話するよう言っているし、自宅の方は大丈夫だろう。今日はひとまず、珍しく荒地となった村雨邸の掃除に専念する事にした。
掃除道具を揃えながら、村雨の慌ただしい生活の気配を辿っていく。相当忙しいのだろう。冷蔵庫の中は予想通り空っぽで、消耗品の替えは底を尽きかけていた。それらを掃除のついでにメモしていく。
自分が負けず嫌いな性格である、というのは昔から自覚していた。それから、凝り性である、という事も。やるからには完璧でないと気が済まないし、やり始めたのなら飽きるまで色々な方法を試したくなる。自己管理こそが完璧を築く為の初歩であり最難関で、自己を制する為なら血を吐いてでも改善を繰り返すし、人より秀でるなら物事に拘りを持たなければならない。
だから、という訳ではないが、気がつけば浴槽のカビからシンクの水垢、果てはフローリングの溝を、古くなった歯ブラシで必死に擦って掃除をしていた。広いリビングの床へ、まるで土下座をするかのように蹲りながら汗だくで汚れを落としている。そんな自分の姿を、電話の着信音で我に返るまで気が付かなかった。
数回、深呼吸をし息を整える。電話へと出れば、俺とは違う意味で疲れている男の声が聞こえた。
『夜には帰る』
疲れ果てた村雨の声に同情心が湧く。コイツ、一体何日帰ってないんだ。
「……本当だろうな」
『三時までには帰る』
「いや三時って……ど深夜の三時って事だろ? それって、帰るに含まれんのか?」
『私が自宅に戻る、というのは帰るを意味するだろ』
「あー、いや、そうじゃなくてだな」
分かっていながら屁理屈を捏ねる村雨に呆れる。電話の向こうで溜め息が聞こえた。溜め息吐きたいのはこっちだってーの。疲れてる癖に戯れてきやがって、いや、疲れてるから戯れているのか。こういう時の村雨は滅多に見ないから、調子がイマイチ掴めない。
「……はあ、さっさと仕事終わらせて帰ってこいよな」
そう言ってやると「あなたに言われなくとも分かっている」と不遜な声が帰ってきた。
それから、いつもとはちょっと違う声音。
『獅子神、私の家に泊まっていけ』
「……」
『今日は帰るな』
元よりそうするつもりだった、とは言わなかった。そんな恥ずかしい事、言えるわけがなかった。自分の思考や行動が全て見通されている気がしたが、俺のプライドがそれを教えることを許さなかった。
この家に来る前の電話で、俺は村雨に「家に上がっていいか」としか聞いていない。だけど優秀な男の事だから、言葉の外を読んで俺の行動と思考を推測したのかもしれない。だが、本当にそうだったとしても、もしくは村雨の気まぐれな我儘だったとしても、泊まるつもりだったなんて事は、どうしても言えなかった。
「……わかった」
お医者様に従いますよ。そう戯けてみせ、俺は電話を切った。
村雨邸に泊まるのは初めてではない。
俺の家には雑用係以外にもハウスキーパーや配達の業者が来るから、二人で会う時は大抵この家になる。だけど、この家で一人っきりというのは、初めてだった。
掃除道具を片付け、捨てなければならないゴミをまとめた。それから夕食の準備へと取り掛かる。
いつも「ステーキを焼け」と、駄々を捏ねる男の為に肉を買っていたが、今日は焼くのをやめておく。焼くだけなら村雨でもできそうだからだ。代わりに、観音開きにした鶏肉に砂糖と塩で味付けをし、くるくると巻いたものを茹でていく。それと同時進行で、皮を剥いていたジャガイモをレンジで温めながら、買っておいたチーズの封を切る。冷たくても食べれる料理を、と頭の中で該当する料理をピックアップしていきながら、テンポよく手を動かしていく。そんな自分の甲斐甲斐しさに驚きと羞恥心が湧いてくるが、気持ちを切り替え作業へと無理やり意識を持っていった。
村雨が普段、どんな仕事をし、どんな生活をしているのかは、詳しくは知らない。俺に対してどんな感情を抱えていて、どんな欲を隠しているのかも、全然と言っていいほど知らない。知ろうとも思わない。ただ、求められているなら応えてやりたいとも思っている。
別に対等性も優劣も、そこに求めてはいない。これが世間一般で使われている愛情というものなのかも、俺にはよく分からない。俺はただ、村雨から勝手に貰った分ぐらいは俺も与えてやりたい、とだけ。本当にただ、それだけを思っていた。
出来た料理をタッパーに詰めていきながら、自分が食べる分だけは皿に盛り付ける。それから、帰ってきた時に調理して食べたくなった場合の事を考え、メモに工程を認めてやる。レンジで温めるだけで充分だが、俺が作った物なのでベストな状態で口に入れてもらわないと気が済まない。これは甲斐性なんてモンじゃなく、単純に負けず嫌いな性格からくるモノだった。
食事を終えればシャワーを借り、勝手に拝借したスウェットへと袖を通し、昼間に干した布団の中へと潜り込んだ。ふかふかの布団で寝返りを打てば布と藁みたいな、いわゆる太陽の匂いと言われている香りが鼻腔を擽る。他人の家である事を差し引けば、肉体労働した日の布団はただただ気持ちがいい。
「……三時」
スマートフォンの画面を付け時間を確認した。デジタルの時計は、まだ夜の九時を示している。
「あと、六時間か」
長いな、と思った。別に待ち遠しいわけじゃない。それに、本当に三時に帰ってくるとは限らない。ただ、ただ、六時間という時間が大きすぎる。本当に、それだけだ。
「……他人の家って感じだな」
当たり前の事を声に出してしまい、自分の間抜けさを恥じいた。
村雨の家は、物音ひとつしない。正しくは、家電から鳴る低い音や、窓外の風音、自分が動くたびに衣擦れの音がしている。が、それらを全て含めても静かだと、物音ひとつしない、と感じた。
大半の人間を追い出したとはいえ、自宅には雑用係が二人も居る。昼間にはハウスキーパーや配達などの業者の出入りがある。他人の気配は常にあり、自分が大きな群れの一部なのだと自覚させてくれた。
村雨の家は、どこまでも静かだ。まるで自分が、この世界に一人きりなのだと、そう錯覚させられるような。
別に孤独が嫌いなわけではない。孤独に怯えるなんて三流がやることだ。ただ、孤独に慣れていないのも事実だった。
二度、三度と寝返りを打つ。なんだか居心地が悪い気がして、なんだか自分が正しい形に成れていない気がして。
「……もうちょっとだけ、飯作っておくか」
結局、一度は布団へと入ったのに俺は何を血迷ったのか、日付が変わる時間まで作り置きの料理を増やしていた。
街が寝静まる程の静寂だった。実際、明け方に近い三時という刻は、大体の生き物が寝静まっている。
死んだみたいだ、と村雨は思った。医者をしている彼にとって物音一つしない夜闇は死に近いと感じる。だから、せめて、こんな疲れ果てた日には彼に居て欲しいと、そう考えたのかもしれない。
闇色で塗りつぶされた家の廊下を抜け、階段を上がっていく。家の至る所で、自身とは違う人間の残香を村雨は感じ取った。これだけ様々な場所に匂いが残っているという事は掃除でもしてくれたのかもしれない。そう推測していきながら、村雨は歩を進めていく。
寝室の扉を開ける前、人の気配を感じた。他人の匂いが一層、強かったからだ。そっと、音を立てずに扉を開ける。ノブを右に強く引っ張りながら回すと、解錠の音が最小に抑えられる。勝手知ったる自分の家なので、村雨は意識せずともそう開けた。
ゆっくりと扉を開ける。カーテンをきっちりと引いていないのか、部屋に月の光が細く差していた。一歩、部屋に踏み入る。見慣れた自室のベッドに金髪の男が寝ていた。獅子神だ。
深く眠っているらしく、規則正しく聞こえる寝息に乱れはない。
そっと、すり足で近寄り、その寝顔を覗き込む。普段見せる、険のある態度とは打って変わって、幼さのある寝顔だった。実際より若く見えるのは泣き黒子のせいか、それとも垂れ目がちの目元の作りからか。起きていれば煩く動く口も、眠った今は固く閉じている。どのパーツも大きく、骨格に沿って配置されてた顔は、黙っていれば品のある顔立ちに思えた。
触れたい、という衝動が村雨を襲った。確かめてみたくなった。獅子神という人間を、その存在を。だから触れたのだ、その頬に。しかし同時に、重く閉じていた筈の瞼がぱっと開き、眠気を微塵も感じさせない相貌が無表情な村雨の顔を映した。
「……覗きなんて、趣味が悪いじゃねえかよ」
「随分と恥を知らない寝言のようだな。気が付かなかったのは、あなたの落ち度だろう」
数秒睨み合い、それから、お互い耐えられなくなって笑った。
「帰ってきてたなら普通に起こせよな」
「熟睡している人間を起こすほど悪趣味じゃないぞ、私は」
「いや、趣味で手術してる人間に言われたくねえよ」
「趣味ではない」
「じゃあ使命ってやつかよ?」
獅子神の嫌味に村雨は、目は無表情のまま、片口角を上げてみせた。
「いや、何したり顔で笑ってやがんだよ」
「あなたも興味あるなら立ち合わせてあげよう」
「興味あるように見えたか?」
「冗談だ」
夜半の、それも三時という時間に帰ってきたとは思えない村雨に、獅子神は内心呆れた。呆れたが、安心もした。思っていたよりも元気そうだ。
「それより、お前、なんか手冷たくないか?」
「そうだろうか」
「テメーに顔触られた時、水でもかけられたかと思ったぜ。それで目が覚めた」
「そうか」
素っ気無い返事をする。どうでもいい、といった態度だ。それから村雨は、自分の指先をまじまじと見、何を思ったのかそのまま獅子神の眼前へと差し出した。
「なら、あなたが温めてくれ」
「は、はあ⁉︎」
予想もしていなかった言葉に獅子神は思わず大きな声を出してしまった。それを口に指を当てた村雨が「静かにしろ」と窘める。
「方法は任せよう」
「い、いや、風呂にでも入れよ」
「見捨てるのか? 今にも凍えて死にそうだというのに」
「はあっ⁉︎」
くっくっ、と楽しげに笑っているが、骨ばった手を引っ込めようとはしない。そんな村雨を前に獅子神は途方に暮れた。これは絶対に引かない時の村雨だ、と。
「早くしてくれないか」
「……」
「何、策が尽きたか?」
はあ、と大きなため息を心中で吐き出す。一度決めた事は死んでも譲らない男だ。それは獅子神自身もそうであった。そうであったから、理解していた。
「……まず、どうすればいい?」
「あなたが考えろ」
「くっ」
本来の獅子神であれば読み合いなんて容易いものだ。村雨が相手だと苦戦はするが、それでも普通の人間よりは読み合いに長けている。読み合い、であれば。
今の状況は読み合いとは全く呼べない。ただ村雨が獅子神の回答を待ち、それを楽しむだけ。どんな答えを獅子神が出そうと、村雨は満足してしまう。そこまで分かっていながら、いや、分かっているからこそ獅子神は動けなかった。
きっと獅子神が何をしたって、村雨は嬉しそうに受け入れるだけだ。それが気恥ずかし過ぎて堪らないのだ。何をしたって相手に好意が伝わってしまいそうで、いや村雨が相手ならば確実に伝わってしまうから、それが堪らなく恥ずかしい。
リアクションを取るという事は、相手に情報をタダで差し出すという事だ。自分が抱えている負の感情も、正の感情も、全て。
もう一度、獅子神は心の中だけで溜め息を吐いた。
「……ほら、手、出せ」
意を決したのか、村雨より厚みがある大きな手が、細長い手先を掴み引き寄せる。
「……冷てえな」
「少し、貧血気味なのかもしれないな」
獅子神は、両手の間に村雨の手を挟み、冷たくなった手を揉むようにさすってやった。それを村雨は、薄闇のなかで黙って受け入れている。
「……あなたの手は随分と温いな」
「寝てたからな」
「起こしてすまなかったな」
「別に…」
二人の間に沈黙が下りる。普段であれば煩いぐらいの村雨も、今日は静かだ。獅子神の目に見えないだけで、本当はもう眠ってしまいたいぐらい疲れているのかもしれない。
薄暗闇の中、触れた手の、共有する熱だけがリアルだった。
「獅子神」
眠そうな声が名前を呼ぶ。視線だけを獅子神は寄越した。が、その目は村雨が目の前に居る、という事しか把握しなかった。ぽつり、と言葉が溢れる。
「来てくれてありがとう」
「……ああ」
二人以外は死んでしまったかのような、静かな夜だった。微かな呼吸と、温度の違う熱と、言葉だけが在る。
「ずっと会いたかった」
「たかが一週間ぐらいだろ」
薄闇の中では相手の顔も見えない。実際に見えていないのは寝起きの獅子神だけだったが、その事実にまだ気が付いていない。だからか、獅子神は言わないはずの言葉まで出してしまった。
「まあ、俺も……会いたかった」
獅子神の言葉を聞いても、村雨は何も言わなかった。ただそっと目を閉じるだけ。長い留守番を任されていた子供のような、寂しそうな顔をした獅子神が居たのを、自分の心の中にだけ仕舞った。
村雨の中で色んな言葉を見繕うが、そのどれもが伝えないまま、熱に触れた氷のように心の奥へと溶けていく。言葉にしてしまうと、自分が抱えている感情の形が決まってしまう気がした。愛情だとか、庇護欲だとか、そんなものに。自分が抱えている感情はもっとずっと理解不能で温かい。
「……寝たのか?」
獅子神がそっと伺う。
「いや、寝ていない。だが寝てしまいそうだ」
「なら寝ろよ」
「いや、もう少しだけ、あなたと話したい」
「明日は休みなんだろ」
獅子神の手を村雨が掴み返す。帰ってきた時よりも少しだけ温度の上がった手が、縋るように温度の高い手を握る。
「会えていなかった時間を埋めたいだけだ」
その、なんの飾りもない素直すぎる言葉に獅子神はただ顔を染めることしかできなかった。戯けることも叱ることもできない。
「……逃げねえから、今日はもう寝ろって」
「あなたが逃げるなんて、そんな心配はしていない」
「……」
「それは私も同じだ。あなたから逃げたりしない」
「……何が言いたいんだか」
「別に、ただの戯言だ」
そうか、と返した言葉はしかし、安心の混ざったものだった。
「……それでも、疲れてんならもう寝ろ」
「あなたがそこまで言うなら従おう」
「さっきは起こしてごめんとか、殊勝なこと言ってたくせに」
「寝かしてしまうのが惜しくなっただけだ」
獅子神は、村雨が今どんな顔をしているのか見たくなった。こんなに甘えてくるのは珍しかったから。いや、自分も珍しく恋しいと思っていたからか。
「……隣、来いよ」
「……珍しいな、獅子神。あなたから誘ってくるとはな」
「誘ってねえよ。添い寝だ、添い寝」
「添い寝か」
「寒くて今にも凍えて死にそう、なんだろ?」
ふ、と村雨が噴き出すように笑う。
「そうだ。私は今にも凍死してしまいそうだ」
「……だから、温めてやらねえこともねえよ」
ほら、と少し横にずれた獅子神が、布団を持ち上げ隣を促す。村雨は、勧められるまま、ベルトを外し着ていたジャケットを脱ぎ捨て、獅子神の隣へと潜り込んだ。
「……温かいな」
さっきまでそこで寝てたからな、とは答えなかった。村雨の指す温度が、そんな事実確認ではないことぐらい獅子神にも分かった。そして獅子神もまた、一人で寝ていた時よりもずっと、暖かく感じた。
「……村雨」
混ざり合った温度、名前を呼ばれ微睡のなかで寝返れば、鼻先が触れるほどの距離となった。薄闇でも相手の表情がわかる。獅子神は、村雨の名前を呼びながら優しい顔をしていた。
「獅子神……」
「おかえり」
ゆっくりと、獅子神の言葉を村雨は受け取った。薄い唇が、微笑むように弧を描く。
「ただいま」