夜の海へゆく


 海、見に行こうぜ。
 
 叶がそう言ったのは真夜中、深夜〇時を少し過ぎた時間だった。
 寝室の明かりは煌々としていて、真昼のように明るい。だから叶も、呑気にアホな提案をしてきたのだろう。
 なあ、敬一君。海、見に行こうぜ。今から。
 こんな具合に。
 俺たちは互いに服を着ていなくて、尚且つヤる事をヤッた後だったから、この提案は聞かなかった事にしたかった。叶の発言がただの思いつきだと分かっていたから、というのもあったが。兎に角この男の気分にわざわざ振り回されてやる義理はない。それに散々振り回されたあとだ。今日はもう寝てしまいたい。
 叶に背を向け、布団を引き寄せる。もう寝るぜ、と強引に場を凌ごうとした。だが叶は俺を、そう簡単に離してはくれなかった。
「意地悪すんなよ、敬一君。聞こえてんだろ」
「……」
「寝てもいいけどさ、俺も意地悪してやるから」
「……誰が運転すんだよ」
「敬一君」
 だろうな。
 だけど結局、叶があまりにもしつこく誘うものだから、俺たちは真夜中だというのに海を見に行く事となった。
 そうと決まれば早いもので、飛び起きた叶は俺のクローゼットから勝手に服を拝借し、テキパキと外出の準備を進めていく。それから、追いてくぜ、と。俺を怠け者かのように急かし、さっさと家の外へと飛び出してしまった。その後を、シャツのボタンを留めながら追う。先程まで俺に見せていた顔とは違い、ガキのようなハシャギ様だ。まだ起きていた園田たちに留守を頼み、俺たちは海へと向かった。
 
 車を飛ばし、海へと向かう。ナビ通りに行けば一時を過ぎる前には辿り着くだろう。なにも浜まで行く訳じゃない。海ならどこだっていい、と叶は言っていた。ならばさっさと用事を済まして帰ってしまいたい。俺たちは、真夜中でも絶えず轟き輝く臨海の工業地帯へと向かっていた。
「なんで海なんか見てえんだよ」
 向かう最中、疑問に思っていたことを問う。海、それもこんな夜中に。
「んー……着いてからのお楽しみ、ってヤツかな」
 怪訝に思ったが、追うことはしない。こういう時の叶は、どれだけ訊いたって教えてはくれないからだ。
「海……なあ」
 街の灯りが、都心を離れていく車と同調するように少なくなっていく。まるで光のグラデーションだ。中心部は夢のように輝いているが、離れてしまうとその光は弱くなってしまう。なんだか苦い記憶を思い出しそうになり、奥歯を噛むことで耐えた。俺は今、このグラデーションの中で一体どの辺に居るのだろうか。
「……叶、オメーなに食ってんだよ」
 いつもの奇抜な格好じゃない、俺の服を着た叶が、いつの間にかお菓子の袋を手に持っていた。俺の問いに袋を掲げ、パッケージを見せてくる。見覚えがあった。前に二人、コンビニへ立ち寄った時に教えてくれたお菓子だ。叶が持っているのは市販のフルーツグミだった。
「敬一君も食べるか?」
「……この時間は食わねえから」
「真面目だな」
 そう言って助手席の叶が笑い、持ち込んでいたグミをひと粒、口の中へと放り込む。それを横目に見ていれば、いちご味、と聞いてもないのに教えてくれた。
 叶は先ほど俺に、食べるか、と聞いてきた。
 あれは俺が食べないと分かっていて、だからこそ訊いてきた言葉だ。毎度の事ながら、叶の試すような言動の真意が読めず、惑う。
「なんで聞いた、って言いたい顔だな」
「勝手に人の心を読んでんじゃねえって」
 怒るが、叶はどこ吹く風だ。
「俺はさ、コミュニケーションを楽しみたい」
「おい、今まさに楽しめてねえだろ」
「敬一君が食べないって分かってても、欲しいかって聞きたいんだ」
 窺うように視線を寄越せば、笑う叶と目が合った。つい、逸らしてしまう。
「……意味あんのか、それ」
「俺には意味あるけどな」
 俺はね、と。念を押すように叶が言う。まだ意味とやらを理解できていない俺は首を軽く傾げ、運転に集中することにした。
「敬一君、海ってまだ?」
「あ?」
 街の灯りは先より減ってきてはいる。だけど海は、まだ遠い。微かだが、甘いグミの匂いが俺の鼻先まで届いた。
「ならテメーで運転しろ」
「嘘、冗談だって。後で沢山労ってやるからさ」
「オメーの労いに期待できねえよ」
「なに、待ち遠しいって?」
「コミュニケーションはどうしたんだよ、おい」
「こういうのもコミュニケーションだろ」
 またひと粒、柔らかそうなグミが叶の口に放り込まれる。窓外の光はわずかしかなく、口の中に放り込まれたグミがなんの味だったのか、闇色の中ではよく分からなかった。叶も、今度は何味を食べたのか、俺に教えてはくれない。
「ちょっと前まではさ、海が見てー……って。別にこれっぽっちも思わなかったんだよな」
「なんの話だよ」
 赤信号に引っかかり、車のスピードを落とす。
 叶の口振りはどこか、夢を見ているようだ。
「ブレーキ効かないぐらい、入れ込んじゃったのかもなー……って」
「だから、なんの話してやがる」
「敬一君の目ってさ、海の色に似てるよな」
 どうして観られている事に気付かなかったのか。いつもの派手なコンタクトではない目が、俺を射抜くように観ていた。
「……本当に、なんの話してんだよ、オメー」
 窓を少しだけ開け、外の空気を吸う。海は見えないのに、なぜだか潮の匂いがした。
「確かめたくなった。それだけだ」
 叶が続ける。
「敬一君の目、見てるとさ、すっごく青くてびっくりすんだよな。その時に思ったワケだ。敬一君の目が海の色に似てるなって。それで……本当に似てるのか検証したくなった」
「……で、確かめたらどうすんだよ」
 どうして、そんなことを尋いたのだろうか。だけど俺は訊かずにはいられなかった。
「別に、どうもしねーけど」
 少し間を空け、でも、と叶が続ける。
「ただ、まあ……この先、敬一君を思い出したくなったら海にでも行こうかなって。エスケープ先? っていうのかな、思い出に浸れる場所の開拓ってヤツかもな」
 どうして、あんなことを尋いたのか。叶の言葉が、今生の別れのように聞こえたからだ。
「……イヤになったのか?」
「え?」
「あ、いや。別に。なんでもねえよ」
 惑っていた。俺は、俺が思っている以上に、叶から離れる事を恐れている。
「不安がるなよ」
「だから、なんでもねえって」
「敬一君を手放すワケねーじゃん」
「も、分かったから……」
「好きだぜ、敬一君」
「分かったから、もうやめろ」
「敬一君は?」
 ハンドルを握る手を掴まれ、一瞬、叶へと振り返った。片目しか見えていない目が闇夜の中で鋭い光を点していて、どうしてか、心臓がギュッと苦しくなる。あぶねえだろ。そう怒鳴って注意してやりたかったのに、俺は声を出すどころか動くことすら出来ず。僅かに口を開き、喉が痛み、震え、口を結んで黙ってしまった。
「敬一君は?」
「……」
 惑う。叶の求める答えは明瞭だった。そして俺の心も、求められている形をしていた。なのに恐ろしいと感じている。この男から離れることも、この男に好きだと伝えることも、どちらも恐ろしい。
 叶のことは好きだ。だけど、どう好きなのか説明し難い。特に今、配信者でもギャンブラーでもない、気心の知れた友人とも違う、鋭い光を点す叶のことは。
 掴まれた手を振り解くことも出来ず、叶と見つめ合う。
 尊敬かもしれない。憧憬かもしれない。恋慕かもしれない。嫉妬かもしれない。そのどれもであり、そのどれもが違うのかもしれない。
「なあ、聞かせてくれよ」
 この男に求められると、応えたくなる。まるで魅入ってしまったかのように。求められるまま受け入れざるを得ない。そういった強制力があることも、否定はできない。
「敬一君は?」
 耳元で叶が囁く。抗えない、と心が零す。
「……」
「敬一君」
 この男が好きだ。だが恐ろしくもある。どちらが俺の本心だろうか。
「……あ」
 いつの間にか信号は青に変わっていた。だけど俺は、車を前に進めることが出来なかった。間が悪いことに俺たち以外の車は影すら無い。ここは俺と叶、二人っきりだ。
「……俺も、オメーのこと、好きだ」
 息を細く吸い、ゆっくり吐く。
「だから、手、離せ」
 掴まれていた手が離され、俺もだ、と耳許に残して離れる。叶は、俺が抱えている感情がどんな意味を孕んでいるのか、見切ってしまっているのだろうか。もしそうなら教えて欲しい。俺は未だに、コイツの事が愛しくて、コイツの事が恐ろしいから。
「敬一君、口、開けて」
 唇を親指で押され、抵抗も虚しく口をこじ開けさせられる。舌を長い指で弄ばれた後、そこへひと粒、柔らかい何かが舌先を遊んで押し入れられた。グミだ。叶が勝手に持ち込んでいた、あのフルーツ味のグミだった。
 先ほど俺は、この時間に物は食べない、と眼前の男に言ったはずだ。なのに無理やり食わせ、吐き出さないよう指で口を塞がれている。勝手な奴だ。本当に。
「……甘えな」
「水飴と砂糖でコーティングしてるからな」
 そんなモン食わすなよ。そう悪態をついてやりたかったが、叶の目を見ていると逆らう気持ちが萎えていく。よく躾された犬のように従う俺を、叶が愉快そうに目を細め、観察するように見下ろしていた。
「な、キスしていいか」
 俺の返答を待たず、叶の唇が押し当たり、舌が潜り込んでくる。舌で迎えてやれば調子に乗った手が俺の胸先を弄り始めた。ふ、と息を漏らす。肺が熱い。一度、口を離そうと叶の胸板を押したが、びくりともしなかった。舌が口蓋を撫で、絡まり合うように伸ばされ、呼吸まで喰むようなキスをされる。酸欠で視界が歪み、指先で強く擦ったかのように滲んだ。
 夜の中で派手な色彩の男が笑っている。陸で溺れる俺を見下ろし、笑っていた。
「か、の……っ」
「ほら、やっぱり」
 抗う手を取られ、長い指に目許を拭われる。視界がほんの僅かだが明瞭となり、片目だけを出している男と目が合った。
「やっぱり、海に似てるだろ」
 叶にはなにが見えているんだろうか。俺には、なにが見えていないのだろうか。
 また、叶の顔が近づき、俺たちは唇を重ねた。叶の巨躯が俺に覆い被さる。まるで骨まで貪り喰う様に。逃げ場を失った俺は、暴力的に与えられるキスを、ただ受け入れた。
「……ん、ぁ」
 鼻にかかった己の息遣いが聞こえ、羞恥で目が回る。
「甘い声、出てるぜ、敬一君」
「う、るせ、っ……!」
 粘着質な音を立て、俺たちは貪り、貪られ続けた。
 まだ酸欠だからか、それとも車内に漂う甘ったるい空気に酔っているのか。頭がクラクラと揺れて不安定だ。まるで酩酊しているみたいに。
 滲む視界でまた、叶と見つめ合う。この男が好きだ。そう、はっきりと言ってしまえば楽になれるだろうか。
「かのう……」
 名前を口にする俺に、だけど叶は、俺より先に己の欲を口にした。
「やべ、勃ってきた」
「は」
 時間が止まる。俺の表情も。まるで壊れてしまったパソコン画面のようにフリーズした。
「いや、敬一君がエロい顔してっから」
「え」
「ま、いいよな」
「まて、よくねえよ」
「いいじゃん、まあ」
 車内とはいえ外だ。確かに散々、俺たちは人目も憚らずにキスをしたけど。人目なんてモノはなかったが。いや、そんな問題じゃない。兎に角、こんな所で痴態を晒すつもりは俺には無い。
 だけど叶は、もうすっかり気持ちが入ってしまっているようで。押し退けようと腕を突っ張るが欲を前にした体は俺の上から退こうとしない。
「叶、やめろ、どけっ……!」
 首筋を舐められ、震え、上擦った声が漏れる。
「んっ、ぅ、おい……!」
「はは、気持ちよさそうにしてんじゃん」
「てめっ……!」
「俺たち、海には行けないかもな」
「は、なに言って、ん、ぁ、やめっ……!」
 無作法な手が服の中、肌の上を這う。悪寒とも違う痺れが、背筋から脳まで駆け上がった。
「いっ、ん……っ!」
「こら、暴れんなって」
「かの、も、やめろって……」
「敬一君、俺のことみて」
 フラつきながら顔を上げ、叶をまっすぐに観る。
 そうか、と気付く。
 俺は叶を押し退けられないんじゃなく、押し退けようとしていないのだ。まるで魅入っている。眼前の男に求められるまま、我が身を差し出している。
 手が肌を這う。それを今度は抗うことなく受け入れた。背骨の奥から興奮が滲む。体が震え、甘くなった吐息が口の間から零れた。快が俺を、優しく撫ぜてゆく。
「か、かのう、ん、ぁ」
「け、いちくん……」
 よく躾された犬の様な俺を、叶は愛でるように抱きしめていた。
「敬一君のこういう目も、俺は好きだな」
 まるで夢を見てるような、そんな声だ。
「……っ、あ」
「敬一君、好きだ……」
 思い返せば最初からだ。まるで夢を見ているような。いつもの叶とは違う。まるで何か、そうだ、まるで今生の別れを惜しむような、そんな声音だ。
 その言葉は気がつけば勝手に俺の口から出ていた。
「……俺を捨てんのか?」
 叶が静止ボタンを押したかのように止まり、大きな目が見開かれる。
「え」
「あ」
 突然だった。
 突然、激しいラッパのような音が俺たちの空気を裂いた。はっと我に返って後ろを振り向けば、後列の車が激しいクラクションを鳴らしていた。現実が加速し、俺たちの元へと収まっていく。途端、冷や汗が額を伝った。
「や、やべ」
「怒ってるな、あの車」
「なに呑気に言ってやがんだよ!」
 急ぎ信号を確認し、アクセルを踏む。幸いにも後列の車は常識的な運転手だったらしく、俺たちは変な絡まれ方をされる事なく素直に発進することが出来た。勿論、俺たちが非常識な車であるのは自覚している。もう一度だけ後ろを確認したが、クラクションを鳴らした車はどこにも見当たらなかった。夢だったのかもしれない。どちらでもいい。俺たちはまた、海へと向かいはじめた。
「……ったく、あんな所で盛ってんじゃねえよ、アホ」
「はいはーい」
「適当に返事してんじゃねえ! 次やったら、ただじゃおかねえからな」
「……また会ってくれるのか、俺と」
「は」
 叶の声はもう、夢を見ていない。隣に座り、俺を見ている。そして、捨てるのか、といった俺の言葉を問い返していた。
「……質問に質問で返してんじゃねえ、ボケ」
「それは、また会ってくれるっていう意味として受け取っとくぜ」
「勝手にしろ」
 甘い匂いがした。叶がグミをひと粒、口へと放り込んでいた。
「みかん味」
「訊いてねえって」
「俺に興味持てよ!」
「今、テメーの為に運転してんだろうが!」
 怒るなよ。そう嘯く叶の表情に反省の色はない。
 呆れ、はあ、と態とらしく溜め息を吐いた。
「海、楽しみだな、敬一君」
「俺はテメーのせいで疲れたけどな……」
 あははは、と。今日一番ってぐらいに大きな声で、叶が笑った。



 それから数日後、俺たちは再会した。
 銀行が主催する賭場、そこの対戦相手として。
 確かにこれは夢のような光景だ。
 悪夢か吉夢かは、まだ分からないが。


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