お題「ハート」「雨」
雨が降っていた。
いつから降っていたのか。朝からか、それとも夕方か、昨晩からなのか。
雨はアスファルトに落ちるとさらに小さな粒となって弾け、家を出ようとしていた獅子神たちを濡らした。
この日、獅子神と村雨の休日が久々に重なった。だというのに空は生憎の雨で、厚みのある雲は二人の上に居座ったまま動こうともしない。前々から遠出を計画していたというのに、これではスケジュールの全てを調整し直さないといけない。
だが今の獅子神にとって足を濡らす雨も、乱れてしまったスケジュールも、些末な問題となってしまった。なってしまった、というのはつまり、この瞬間、全てがどうでもいいと思えるモノを見てしまったからであった。
今、この現時間において獅子神が最重要視するのは村雨が手に持っているモノ。透明のビニール傘だ。コンビニで売られているような特徴のない、骨組みが解剖図みたいに丸見えの傘。その柄に異質なモノが付いていた。ピンク色に光る、ハート型のシールだ。
「オマエ、それ」
指差してから、獅子神は問いを用意していない事に気づく。傘を指差す手はしばらく宙を彷徨い、それから「自分のかよ?」という、よくわからない質問を置いてから下ろされた。
「正真正銘、私のだが」
「へえ」
なら、そのシールも村雨が選んで貼ったモノなのだろうか。この男には随分と似つかわしくない、ファンシーなピンク色のハート。いや、獅子神が知らないだけで存外、可愛らしい趣味を持ち合わせているのかもしれない。そう考えたが、やはり獅子神にはしっくりこず、再度疑問を口にした。
「それ、オメーが貼ったのかよ」
「は?」
不機嫌そうに眉根が寄り、といっても村雨という男は常に神経質な不機嫌さを纏っているのだが、自身の手元に視線をやってから「ああ、これか」と、自身へと答えるように呟いた。
「この傘は私の物だが、このシールは私が選んだモノではない」
「あ、そうなのかよ」
「盗難防止だと言っていた。こんなモノで防げるとは到底、思えんがな」
拍子抜けするぐらい、あっさりとした解を得た。だが尋ねた獅子神の頭にあるピースは不揃いのままだ。誰が、どうして、傘に、それも村雨の、こんな可愛らしいシールを貼ったのか。その傘に触れ、シールを選び、貼った手はどんな姿をしているのか。その時、村雨はどのような表情で応対したのか。どのように返し、どのように受け取ったのか。自分の知らない世界での村雨は、どのような顔をしているんだろうか。
獅子神の中で妄想が駆ける。だが、その妄想は果てを得る前に消えてしまった。自己嫌悪と呼ばれる穴にはまったのだ。言葉も表情にも出さず、密やかな後悔をする。またやってしまった、と。
「……そっか、先生も案外、慕われてんだな」
「……」
「それより、どうするよ。すげー雨だぜ」
だが顕微鏡のような男の前で隠し事などできるはずもなかった。骨張った手が掛けていた眼鏡を押し上げ、小さな溜息を吐いてから続ける。
「言っておくが、貼ったのは私の上司にあたる人間だ。それも男の、だ。娘に貰ったシールを誰彼構わず貼ったのを偶々私も貰っただけにすぎない。理解したか、マヌケ」
「え、ああ……」
「なんだ、その顔は」
どんな顔をしているというのか。獅子神には知る由もなかった。だから素直に白状したのだった。
「……勝手に不貞腐れて悪かった」
「なに、謝る程のことでもない。だが私はあなたに対し、やましい事など絶対にしない」
「やましい事?」
すれ違っていた視線が重なり、二人が顔を見合わせる。
「疑っていたんじゃないのか?」
「いや、俺はただ、なんか勝手に寂しく感じて……」
今度は村雨が顔色を変える番だった。男の顔色は己の突飛な想像に赤くなり、面白くない、と言わんばかりに顔を背ける。それを、獅子神は声を出して笑った。
「だははッ!」
「……」
「いや、そもそも、そんな心配はしてねえって」
「黙れ、マヌケ。笑うな」
「いやー……だってな、先生」
「煩いぞ、マヌケ!」
雨音にも負けない声でひとしきり笑えば、目元の涙を拭いながら獅子神が言った。
「だいたい、オメーはそんな事しねえだろ」
「……フン」
それより、今日はもう家ん中に居ようぜ。獅子神がそう提案すれば、まだ目を合わせてくれない村雨が返事もなく後に続き、二人は家の中へと入っていった。雨は、まだ降っていた。