お題「猛暑」


 ただ立っているだけ。だというのに、額から流れ落ちる汗が止まらない。息を吸い、ゆっくりと吐く。簡単な呼吸だ。だというのに肺には溶けるような熱気が送られ、思わず咽せ返った。信号が変わり、突っ立っていた人々が歩き始める。己もそれに倣い横断歩道を渡った。顎から滴り落ちる汗を手の甲で雑に拭う。前髪を掻き上げ、夏の日差しに目を細めた。指が汗を掬い、肘まで伝い、乾いたアスファルトへと落ちていく。ジュ、なんて大袈裟な音は聞こえやしないが、熱された地面に落ちた汗は、すぐに跡形もなく消えてしまった。スラックスの尻ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出し、ロック画面を開く。午後二時。太陽光に負けそうな画面が無慈悲にも、この炎暑がまだ続くことを示していた。
 外に出たのは、買い出しの為だった。
 久々に帰った自宅には食べ物どころか飲み物すら無かったのだ。
 車ではなく徒歩なのは、ただのミスだった。
 いつも獅子神の好意に甘え、移動は全て彼の運転する車だったからだ。
 だから、という訳でもないが。外がこんな、いわゆる猛暑と呼ばれる気候なのだという認識がしっかりと持てていなかった。当たり前だが、暑い、とは認識していた。夏なのだから。しかしここまでの酷暑だという実感まではなかった。だから半袖のシャツに風通しの悪いスラックスと革靴、なんて狂ったような夏と相性の悪い格好で外を彷徨いている。
 そういえば、と思い出す。最近は仕事の送り迎えも獅子神に頼りっきりであった。なんなら、そのまま夕食までご馳走になっていて。最近では衣類や日用品も、あの男の家に置いている。これではどっちの家に住んでいるのかわからない。そんな状態だから、今日のような体たらくを晒す事になった。誰を責めればいいのやら。いや、今回ばかりは自分が悪い。自分が悪いとしても、あの男にも罪の一端を担って欲しかった。
 ヨタヨタ、と。生まれたての子山羊のような動きで歩道脇の花壇へと腰掛ける。手に持ったままだった所為か携帯端末が熱くなっていた。それを耳に当てるなんて忌々しくて仕方がなかったが、背に腹は変えれまい。三度のコールが鼓膜を振るわせ、聞き慣れた声が「よお、村雨。そっちから電話なんて珍しいじゃねえかよ」と、腹が立つほど涼しげな声で電話に出た。
「あなたと優雅にお喋りしている時間はない」
「は?」
「あなたは私を甘やかし過ぎだ」
「いきなりなんだよ。言ってる意味わかんねえんだけど」
「今すぐ迎えに来い、マヌケ。車でな」
「いや、態度でけぇな、オマエ!」
「早く来い、死にそうだ……」
 はいはい、わかったって。電話越しに男の呆れたような、それでいて可笑しそうな、そんな曖昧な声音が私の耳へと届く。
「現在地、後で送っとけよ」
「冷たい飲み物も持ってくるといい」
「図々しいな、オメー」
「私が干からびてもいいのか」
「そんな簡単に干からびたりしねえって」
 それじゃ、切るぞ。その声に「待ってる」と返せば、男の気配が柔らかく笑った気がした。ピリオドを打ったような電子音が聞こえ、電話が切れる。画面を確認した。たったの数十秒という短い通話だったようだ。炎天下の所為か、長い電話のように感じていたのに。
「……早く来い、マヌケ」
 簡単に干からびたりしない、と獅子神は言っていた。迎えに来たら一番に、あと数秒遅ければ干からびていた、と抗議してやる。
「早く来い、マヌケ」
 私がこの程度で弱音を吐くようになったのは、あなたの所為だ。そう、抗議してやるのだ。


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