お題「弁当」
夕食の席だった。
骨張った手が人差し指だけをピンと伸ばし、桜貝みたいな爪が口許、自身の右頬あたりを指す。
村雨にしては珍しい、おっとりとした動きを目で追っていれば、肉の薄い唇が小さく動き、低い声が「お弁当」と囁くように言った。
「え?」
「付いているが」
「なにが」
「だから、お弁当が付いている、と言っている。あなたの口許に。さっさと取ってしまえ」
だから、なにが。そう聞き返せば、今度は苛ついた声が「だから、あなたの口許に付いている、とさっきから言っているだろ」と返してきた。
「だから何が付いてるって」
「お弁当だ。何度言わせたら気が済むんだ、マヌケ」
「それ。それが分かんねえんだって」
「は?」
今度は村雨が聞き返す番だった。口許に指を当て、思案するように目を伏せる。
「……もしや、言わないのか?」
「だから、なにがだよ」
「……口許に米が付いている。さっさと取ってしまえ、マヌケ」
村雨の言葉に従えば、冷たくて柔らかい粒が指に触れた。摘んで見れば言われた通り、一粒の米だった。
今日の夕食は連勤明けで疲れている村雨のリクエストに応え和食にしていた。大根の味噌汁にほうれん草の白和え、焼き鮭、白米。シンプルな献立の中で焼き鮭が、なんだか塩辛い気がし、店を変えるか焼き方を変えるか考え事をしながら食べていた。そうやって、ぼーっとしながら食べていて、それでいつの間にか米粒が頬に付いてしまったのだろう。
それはそれとして、だ。
「へえ、そういう言い方もあんだな」
「忘れろ、マヌケ」
「なんでだよ」
「……実家の癖が出た」
「別にいいじゃねえかよ」
ちらり、と目線を上げ、村雨がこちらを見やる。それから何かを諦めたのか、ため息をひとつ。止まっていた箸でほうれん草を摘み、先の出来事など無かったかのようにご飯を食べ始めた。
食器に箸が当たる音だけになる。味噌汁を飲みながら俺だけは、先ほどの言葉を反芻していた。
「なあ、村雨」
「……なんだ」
村雨は俺が言わんとする言葉が分かるみたいで、聞き返しておきながら「好きにしろ」と顔に書いてあった。
「俺もさっきの、使ってみてえんだけど」
「……好きにしろ」
やっぱり、そう言うと思ってたぜ。
変な言葉でもなければ、笑われるような癖でもない。別に構いやしねえのに。なにを恥ずかしがってんだか。
お弁当、と俺も真似して呟いてみる。なんだか、何かが正しくなった気がして、やっぱり使わないかもな、と思った。