お題「謝罪」


 この世界は道路標識よりも理解しやすく、簡素で、未成熟だ。
 テーブルを挟んだ向かい、籐の椅子に腰掛ける男、獅子神とてそうだ。
 いや、この男は一等分かりやすい。感情の起伏が荒く、顔には出していなくとも態度が全てを語るような。そんな、とても分かりやすい男だった。だというのに今、眼前に座る獅子神のことが私には一寸も分からず、この場で発すべき最適な言葉が思いつかないでいた。
 
 発端は一昨日、仕事場であった。
 退職する同僚への贈り物を人を集って買いに行くから、と同科の人間に言いつけられたのだ。非効率な活動は可能な限り避けているとはいえ、社会性が全く無い、という事はなく。渋々、待ち合わせ場所へと赴いた私を待っていたのは同僚の女性一人だけで。そこで漸く、どうやら下心を以て誘った罠なのだと気付いた。だが後悔先に立たず、だ。悪態が止まない心を理性で抑え込み、さっさと用事を済ませてしまおうと休憩も挟まずに贈り物とやらを二人で物色したのが運の尽きであった。その現場を獅子神に見られた。お互い、合ってしまった目が数秒離せないほど。
 問題は見られてしまった事ではない。
 そもそも私は騙し討ちにあったような身であるし、やましい事はなに一つ無い。
 問題なのは今、私の眼前に座る獅子神から、なんの感情も窺えない事だ。
 怒りもなく。呆れもなく。悲しみもない。表層に現れるのは無感情という頼りのない情報だけで、ここにきて初めて私は取り返しのつかない間違いを犯したのではないかと悟った。
 
 壁の時計へと目を転じる。正午を過ぎた昼。
 互いの間にはグラスが置かれていて、中の氷は疾うの昔に姿を亡くし小さな水溜まりを作っている。テレビは無味乾燥なバラエティ番組が存在意義を喪失したまま流れていた。私は居心地が悪く、しかし立ち去ることの出来ない空気に何度も本を開き、一行も頭に入らず、しおりを挟み直しては天井を見上げている。カチカチ、カチカチ。時計の秒針が煩い。獅子神邸の時計が煩わしく感じるのは初めてで、それが余計に私の心を急かす。手を握りしめ、開き、もう一度、キツく握った。苦しい。心が、ではない。呼吸が、どうしてか息苦しく、肺が痛む。咳をした。それから、また本を開き、目が紙の上を滑って、しおりを挟み、本を閉じて……。
 痺れを切らした私はとうとう、獅子神へと問うた。
「私に訊くことはないのか?」
「え」
 頬杖をついてテレビを観ていた獅子神が顔を上げる。だが、その顔にはなんの感情も無かった。それどころか私の質問の意図が汲めず、頭の上にハテナを浮かべているイメージが似合うほど、マヌケな面で首を傾げている。
「昨日、会っただろう。街で」
「ああ、そういや会ったな」
 頬杖をついていた手を下ろし、獅子神が鳩尾の前で腕を組む。だが圧は感じず、むしろどうしてか、無色透明な雰囲気を纏っているように診えた。
「怒ってないのか?」と、獅子神へ問う。
「怒る?」と、私の目から視線を外さず答える。
「獅子神、あなたは私に怒ってはないのか? 呆れていないのか? 失望しているんじゃないのか?」
 もし獅子神が怒っていると言うのであれば、誤解とはいえ謝罪するつもりだった。
 そもそもは私が迂闊だったばかりに招いた失態だ。私の不足は素直に認め、その後に誤解を解けばいい。浅慮だが、私はそう考えていた。だが今の獅子神にはそれ以前の、もっと前、なにか大前提のようなモノがズレているような、そんな印象を受けた。
「失望って、スケールでけえな」
 そして私の予感は正しく、獅子神は私とは違うモノが不足していたのだった。
「別に、なんとも思ってねえって」
「あなたに黙って女性と会っていたんだぞ」
「テメーで言うなって。でも、まあ、別に良いじゃねえかよ」
「私はっ……!」
 つい大声になってしまい、そんな自分の声に驚いてしまった。いや、違う。声量の問題ではない。私は、自分の中に湧き上がる怒りに己で驚いたのだ。
「……私は」
 握りしめていた手を緩め、息を吐く。
「私は同じ事をあなたがすれば、少なくとも黙ってはいられない、かもしれない」
 腕を組み首を傾げていた獅子神が、はは、と声を出して笑った。だが、いつもの大笑いではない。なにか、道に迷った子供のような、途方もない問題を前にしたような、自分で自分を見失ったような、そんな力のない笑い方だった。
「俺にどうしろって言うんだよ」
 どうして欲しい。どうして欲しかったのだろうか。
「オメーが言ってる意味は分かる。つまり嫉妬したり、疑ったり、とか。そういう話だろ。分かってる、分かってんだよ、頭では」
「……」
「けど、やっぱ。なんにもねえんだよな」
 怒って欲しかった気がする。
 呆れて欲しかった気がする。
 失望した、と責めて欲しかった。
 だというのに、ここまではっきりと境界線を引かれてしまえば私から掛ける言葉などないように思えた。
「……声を荒げてすまなかった」
「……俺も、ごめんな、村雨」
 張り詰めていた緊張を解き、籐の椅子へと深く凭れた。すっかり氷の姿を失ったグラスに口付ける。無味乾燥な液体が喉を伝い、胃の底へ澱むように落ちていった。


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