お題「声」
時々、耳が痛む。
特に今日のような、雨が降っている日は。
真経津晨とのギャンブルで鼓膜を破られたのは、疾うの昔、と言っても差し支えないほど前の事だった。それでも時々、耳の奥、おそらく鼓膜のところ、そこが酷く痛むのだ。ジクジクと、皮膚を裂くような、骨を突くような、そんな痛みが。
時々、耳が痛む。特に今日のような、朝から雨が降っている日は。
手の平を耳に当て、音を遮断する。脈打つ心臓の音と、行き交う血の音が、幽かだが私を癒す。
破られた鼓膜の治療に問題はなかった。そもそも傷を負ってすぐ、自分で行った応急処置は完璧なものだった。だというのに、この痛みは何か。私の人体は何が不満で、こうも痛みを発するのか。まさか、この私が心因的な傷を負ったとでもいうのだろうか。
真経津のヘラヘラと笑った顔を思い出し、苛立ち、余計に私の耳を苛む。今の私なら、あの男に勝てる。だが、今更戦ったとて意味もない。
耳が痛む。雨が降っている。苛立ちが憂鬱へと変わり、床へと寝転んだ。
「おい、こんな所で転がってんじゃねえよ、村雨」
見上げれば、派手な顔の男が私を見下ろしていた。獅子神だ。
生憎の雨で外に出る気力が削がれた私は、朝からこの男を家へと呼びつけていたのだ。呼びつけた理由は一つだけで、下心溢れる野心によってだった。詳しい説明は割愛させていただく。
兎に角、私はこの男と一緒に居たくて家へと呼んだのだ。だというのに耳は痛むし、この男は仕事のメールだとかで私を放置していて、私の機嫌は斜めどころか急降下して地面へと突き刺さっている。喩えが分かりづらいか? 知らん。
「……メールとやらは終わったのか?」
「なんで機嫌悪くなってんだよ」
ズレていた眼鏡を正し、私を見下ろす男にピントを合わせた。
「私を放置するからだ」
「オメーだって仕事のメールぐらい、俺と居る時もやってんだろ」
「できるだけ、あなたが寝た後にしているが」
「マジかよ。あー……ありがとな……?」
私の大海原よりも大きな優しさに獅子神が戸惑う。無理もなかろう。これが出来る大人というものだ。存分に私へ惚れるがいい。いや、この男がもう充分すぎるぐらい私に惚れている事は知っている。だから言うのであれば、存分に惚れ直せばいい、だ。しかしその前に、先よりも耳が痛くなっている。頭痛までしている程だ。怠くて床へと転がっていたが、痛みの所為で起き上がるのが困難となっていた。
ジクジクと痛む耳に手の平を当て、小さな癒しへと耳をそばだてる。が、痛みが和らぐことはなかった。
「獅子神」
「なんだよ」
まだ私を見下ろしていた獅子神へ手を伸ばし、近くに寄れ、と手招く。従順な獅子神は私に誘われるまま、転がる私の隣へと胡座をかいて座った。
「私を抱きしめろ」
「溶けてるみてーになってる人間、どうやって抱きしめんだよ」
「さっさとしろ」
「……はい、はい」
傷のある手が私を掬い、抱きしめる。腕の中は温く、心地が良かった。にじり寄り、男の喉へと耳を当てる。手の平から聞こえる音より、ほんの少しだけ大きな脈動が聞こえた。生きている人間の音だ。
返すように、私も獅子神を抱きしめた。
「何か話せ」
「は?」
「なんでもいい」
「無茶振りしてんじゃねえよ、オメー」
抱きしめる腕に力を込めれば、仕方ねえな、と世話焼きな男が言った。
「まず、鶏もも肉を適当な大きさに切って、そっから塩胡椒で、んで、酒と醤油とニンニク」
「待て、それはなんだ」
「唐揚げ」
数秒経ってから、レシピを諳んじていたのだと気付いた。
「唐揚げか……」
「他のにするか?」
「……いや、唐揚げで構わない」
あっそ。そう答えた獅子神は、そのまま唐揚げのレシピを滔々と話し続けた。その声に耳を傾け、目を閉じる。耳はまだ痛いが、先ほどよりは引いてきている。獅子神の話す声が、喉の震えを伝い、私の鼓膜を優しく揺らす。腕の中が心地良い。私は、この男の声も好きなのだ。
「けど俺は、衣にスライスしたニンニク乗せんのも」
「ふふ」
「……面白くねえだろ、この話」
「いや、私には充分だ」
「……耳、もう平気なのかよ」
驚いたが、なんてことない。この男は案外、目が良いのだ。
「あなたの唐揚げのおかげでな」
「唐揚げのおかげか」
「もう少しだけ、こうしておきたい」
「……はい、はい。仰せのままに」