お題「匂い」


 雑用係が一人、風邪を引いた。
 だからって訳でもないが朝から忙しく、珍しくリビングで微睡んでいた。
 レースカーテンを透かして日差しが、部屋に柔らかく差し込んでいる。空調をつけていなくとも部屋は暖かく、心地が良い。開け放っている窓から時々風が吹き、新緑の匂いを乗せて頬を撫でてゆく。遥か遠く、街の隅から生活の音が聴こえた。耳を澄まさないと聴こえない音は、この時間が穏やかで、何不自由ない生活なのだと教えてくれる。
 不意にアルコールの匂いがした。
 アルコールといっても、酒の匂いじゃない。
 消毒液の、ツン、と鼻を刺すような匂いだ。
 村雨だ。
 村雨礼二という男はよく、病院からアルコール消毒液の匂いを纏って帰ってくる。それは指先であったり、袖の端であったり、背広や私物から。ふわりと俺の鼻先を擽り、部屋のあちこちへ匂いを落としていくのだ。
 村雨が、側に居る。
「村雨……」
 微睡のなか男を探す。無意識の行動は、俺の思考よりも先に村雨を求めていた。
 それは恋しさであったり愛しさからやってくる衝動ではなく、男の匂いを拾うと必ずやっている、習慣と呼べるモノに近かった。
 村雨、と男を探す。
 するとまた応えるよう、ふわり、とアルコールが鼻腔をくすぐった。
 手を伸ばし、近くに居るであろう村雨を探す。匂いの元を辿るよう、宙を手で掻きながら。
 次は確かに恋しくなっていた。触れたい、と俺自身が求める。村雨の手を取り、存在を近くへと感じたくなっていたのだ。
 そして俺の手は、ついに誰かの手を掴んだ。
「……」
「……」
 俺が掴んだ手は、どうしてか、雑用係の園田だった。
「……」
「……あ、あの」
「……」
「獅子神さん……」
「……何してんだよ」
「あ、いや、その……念の為に消毒しておこうと思って、みたいな……」
「……」
「えっと、ほら、風邪引いたんで、あいつ。それで一応……」
 園田の言葉は嘘ではないようで、確かに消毒用アルコールが入ってるであろう霧吹きと使い捨ての簡易タオルを手に持っていた。コイツなりに気を利かせて家中を消毒し回っているのだろう。だが、今の問題はそこじゃない。
 数秒、園田と俺の間に気まずい空気が流れる。掴んでいた手はすぐに離し、代わりに、怯える男を睨みながら苦し紛れの脅しをかけた。
「……園田、分かってるよな?」
「い、言いませんて!」
「……」
「言わない! 言わないっスから! ホント!」
「……分かったから、もういいって」
 しっ、しっ、と園田を手で追い払い、恋しさを紛らわすよう前髪を雑に掻く。寝ぼけていたとはいえ、とんだ醜態だ。他人、特に村雨には死んでも言えない。匂いに反応して恋しくなったなんて、死んでも言えない。
 はあ、と肺に溜まっていた息を吐き切る。寝ていたというのに、寝る前より疲れてしまった。
 小走りで逃げていった園田の背を眺めながら、今度から必ず寝室で昼寝しよう、と。そう、心に誓った。


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