お題「内緒」
上等な紙を二つ折りにしただけの、薄いパンフレットを開き、閉じる。
ホールの照明は薄暗く、オレンジの色のスポットライトが舞台だけに降り注がれていた。
何曲目かが、確か五曲目だ、それが終わり、先ほどまでピアノと真剣な面持ちで向き合っていた少女が立ち上がる。彼女は軽いお辞儀を一度だけし、袖へとはけていった。入れ替わるようにして違う少女が袖から現れる。そのままピアノの硬い椅子に座ると深呼吸し、曲を弾き始めた。
俺はまた薄いパンフレットを開いた。
先ほどから曲が変わる度にパンフレットを開き、今どの曲を弾いているのか目で確認している。だが一つだって分からず、ただ読んでは情報だけを目でなぞり、所在なく閉じていた。
「退屈そうだな」
「え」
隣から声をかけられ、驚き声が出た。
退屈、と言えば確かに退屈だ。だが素直に退屈だと言ってしまうのは、なんだか気が引けた。
それもそのはずで、このピアノコンサートの何番目かに村雨の姪が出るというのだ。退屈だと評してしまうのは失礼にあたるんじゃないだろうか。
だが隣の男、村雨礼二は、退屈そうという言葉の返事に言いあぐねている俺など構わず話を続けた。
「すまなかったな。あまり興味のない場所に誘ってしまって」
興味のない、という村雨の言葉に引っかかる。普段であれば売り言葉に買い言葉で乗ってしまうのだが、こんな場所で声を荒げるわけにもいかない。声を潜め、聞き返す。
「……それ、嫌味か?」
「いや、後悔だ」
「後悔?」
村雨が眼鏡を指で押し上げ、緩慢な動作で俺に顔を向けてから、これまたのんびりとした調子で言った。
「あなたの趣味嗜好を考慮せず、自分勝手に誘ってしまった己の浅慮を悔いている」
これも嫌味か、と普段の俺であれば噛み付いていたかもしれない。だが村雨は本当に後悔しているのか、困り眉がいつもより下がっている。気がした。気のせいかもしれない。だがついつい俺は、そんな村雨へ庇うような言葉が出てしまった。
「……いや、別に退屈って訳じゃねえよ」
「そうならば、いいが」
「退屈っていうか、これはなんつーか、分かんねえ、だな」
「分からない?」
どういうことだ、と村雨が眉根を寄せる。先よりも声を潜め、俺は答えた。
「こういう場所ってあんま馴染みねえから、なんつーか、楽しみ方が分かんねえんだよな」
「楽しむも、なにも。好きにすればいい」
「その、好きに、ってのが俺には息苦しいんだって」
「息苦しい、とな」
こういう時、村雨礼二という存在が煩わしく思う。それはきっとコンプレックスからで、俺はこの小さなささくれに、いつだって躓いていた。
この男にはきっと理解されないだろう。飢える者の息苦しさなんて。
だが不貞腐れず、この複雑で単純な屈折を説明することにした。
「こう、さ。例えば、今弾いてんのはワルツで、ワルツってのは大体が三拍子で、踊るための曲って感じの、教科書通りの知識なら分かんだけどよ。今こうして舞台で弾いてる人が上手いのか下手なのか、だとか、楽器の音がいいのか悪いのか、とか。そういうのが分かんねえんだよ」
「なるほど」
俺の言葉に村雨は思案するように目を伏せる。
言ってしまってから、やっぱり言わない方がよかったかも、なんて。ちょっとばかし後悔した。村雨にはきっと、どれだけ言葉を尽くしたってこの息苦しさなど理解できやしないだろう。
適当にはぐらかしてしまってもよかったはずだ。なのにどうして俺は馬鹿正直に答えたのか。
後悔する俺に村雨が顔を上げもう一度、俺を見る。それから、よく分からない事を言い始めた。
「……なら、そういった教科書通りの楽しみ方は忘れるといい」
「は?」
「例えば、だ。あなたの家の雑用係に弾かせるなら、どの曲がいいと思う?」
「アイツら不器用だからピアノなんて無理だって」
「例えばの話だ」
例えば、と強く返され、考える。あの妙に鈍臭い二人にピアノなんてまず無理だ。それは素人の俺だって分かる。それでも、いやだからこそ、弾かせるならどんな曲か。
「……今弾いてる曲はちょっとテンポが早えから、もう少し遅い方が弾けるんじゃねえのか」
「あまり遅すぎる曲も難しいものだぞ」
「へえ、そんなもんなのか」
「そんなもんだ」
会話はそこで終わった。俺はなんというか、呆気に取られてしまった。
首を捻り、村雨へと問う。
「……こういう楽しみ方でもいいのかよ」
「楽しみ方など人ぞれぞれだ」
「……ま、それもそうか」
パンフレットを開き、曲目を読んでいく。今度は、今まさに留守番してるであろうアイツらが弾けそうな曲を探すように、思い出しながら。ふと、アイツらよりピアノが弾けそうな男の事が気になった。
いつの間にか俺から視線を外し、前を向いていた村雨の耳許へと、まるで内緒話をするかのように声を潜めて訊いた。
「なあ」
「なんだ」
「オメーってピアノ弾けんのかよ」
やや間があり、俺が密やかな声で訊いたからか、密やかな声が答える。
「素人の下手なピアノなら弾けんこともない」
やっぱりな、という心の声は黙らせ、質問を続けた。
「へえ……どんな曲、弾けんだよ」
途端、村雨から返答が無くなる。男は無表情で、だからこそ質問を避けているのだと気がついた。
「……」
「……」
「なんだよ、言えねえ曲かよ」
村雨が視線だけをこちらに寄越す。それから、重々しい口調で訊いてきた。
「笑わんか」
「笑うって、そんな変な曲あんのかよ」
寧ろ、いい憚れるような曲なんて好奇心の方が勝ってしまう。
なあ、教えろって、と。男の肩に凭れて問えば、視線を前へと向けた村雨がぶっきらぼうな声で答えた。
「……いつか王子様が」
「……へえー」
目を細め、口角が上がらないよう相槌を打つ。だが目の良い男には無意味だったようだ。三白眼気味の目が俺を睨み、小さく低い声で怒る。
「笑わない、と約束したはずだ」
「笑ってねえって」
「笑っているだろ」
不機嫌になってしまった男の肩に寄り掛かり、耳許で強請る。まるで内緒話をするかのように。いや、村雨はなんだか知ってほしくないみたいだし、俺は二人だけの約束を取り付けようとしている。これは正しく内緒話だった。
「笑ってねえって。なあ、今度聴かせてくれよ」
「……寝たら承知せんからな」
「わかってるって」