お題「家族」
受け取った書類に目を通す。久々に見た名前に、ただ、そんな奴も居たなと思った。
シワにならないよう茶封筒に入れる。たった一枚の紙切れ。それだけでしか証明できない関係だ。懐かしさもない。恨みもない。ただ、かつてソレらは俺の家族だった、いやただ血の繋がりがあるだけ、それだけの存在なのだった。
幼い時分の記憶が、ひどく遠い。家族という存在が希薄で、軽かった。
帰宅すれば全身真っ黒な男が猫のように寛いでいた。
この家は俺の家であって、決してこの男、村雨礼二の家ではない。一緒に住んですらいない。いわば、ただの来客だ。だというのに我が物顔のこの振る舞いは何なのだろうか。頬杖を付き、足を組み、勝手に淹れたであろう紅茶を飲みながら本を読んでいる。読んでいる本も俺の蔵書だ。という事は書斎へ勝手に入ったのだろう。まったく、自由気まますぎる。
「おかえり、獅子神」
「……ただいま」
喉まで上がっていた文句は、村雨の顔を見た途端消えてしまった。代わりに、外出に伴う僅かな疲れが体に怠く掛かる。疲れを逃すよう、ふ、と息を吐いた。茶封筒の入った紙袋を机へと置き、着ていたコートを脱げば村雨の隣へと座る。シワになるぞ、という忠告は無視し、脱いだばかりの上着を椅子の背へと無造作に掛けた。
「甘い匂いがするな」
「……ったく、目敏い奴だよな、オメーは」
村雨が指摘してきた通り、甘い物を持っていた。紙袋へと手を突っ込み、綺麗に包装されたマフィンを一つ、手渡してやる。本を読んでいた手はマフィンへとすぐに興味が移り、しおりも挟まずに本を閉じてしまった。
「土産」
「一つしか買わなかったのか?」
「俺は食わねえから」
「そうか」
そう相槌を打った村雨はどうしてか、立ち上がり二人分の皿と、一人分のカップとナイフを持ってきた。マフィンを袋から出し、皿へと置く。白く骨張った手がナイフを持てば、まるで外科手術のような手つきでマフィンを二つに切ってしまった。真っ二つにされたマフィンの片側が、もう一枚の皿へと置かれる。それから、差し出すように俺の前へとマフィンの乗った皿が動かされた。
「……おい、俺は食わねえって」
「食べたことがあるのか?」
「は?」
「あなたは前にも一度、これを食べたのか?」
「いや……初めて買った店だったけどよ」
「なら、食べろ」
圧の強い言葉にたじろぐ。意図が読めず、眼鏡の奥に隠れる瞳を覗いたが、村雨は目を細め柔らかく笑うだけだった。
「そう身がまえるな」
「……そんなんじゃねえよ」
「どんな味なのか、二人で楽しみたいだけだ。私に付き合え」
村雨がポットを手に取り、カップへと飴色の紅茶を注ぐ。布巾が被されていたポットの紅茶はまだ暖かく、白い湯気を立てていた。
「……まあ、いいけどよ」
皿を持ち上げ、マフィンを手で掴む。そんな俺を、村雨は不思議そうに眺めていた。
「……なんだよ。半分に分けたのはオメーだろ」
「マフィンが惜しくて見ていたワケじゃない、マヌケ」
「じゃあなんだよ」
「フォークは使わないのか?」
「は?」
手で掴んでいたマフィンへと視線を遣り、村雨へと視線を戻す。それから、ああ、と答えた。
「別に、要らねえだろ」
「そうか、ならいい」
そう言って、村雨がぎこちなく素手でマフィンを掴む。不慣れなのが分かる所作に思わず、言わなくてもいい言葉が口を衝いた。
「育ち良さそうだよな、オマエ」
目が合う。責めることも、問うこともない、感情の乗っていない目だった。
「あ、いや」
「つまらん話に付き合う趣味はないぞ」
「つまらんって、別に……」
「帰ってきてから少し変だとは思っていたが」
「変って、どこがだよ」
俺の言葉など無視し、村雨が続けた。
「なにがあったかは知らん。聞く気もない。だが欲しいままに好きな方を選べるよう、そういった生き方ができるよう、今まで生きてきたのだろ。今更、見失うような真似はするな」
手に持っていたマフィンを落としかける。だが俺の目は村雨を凝視したままだった。
遠く、希薄だった記憶が胸の中で靄を作っていた。いつから。書類に印字された名前を見た時からか、それとももっと前からだろうか。軽いからこそ、実感もなく在り続けていたのか。俺がただ在ると錯覚しているのか。曖昧な違和を自覚し、それから。それから。
それから、霧散してしまった。
確かに、語るに足らないつまらない話だ。気づいた途端、輪郭を失って消えてしまった。いや、感情のない目が俺の中からかき消してしまったのか。はあ、と息を吐いて答える。
「……説教聞く趣味はねえよ、先生」
「私とて説教する趣味もない」
村雨が素手でマフィンを掴み、あ、と大きく口を開いて齧った。ぎこちない動きを横に、俺もマフィンを素手で食べた。