お題「おちる」


 ごん、と。硬く重いモノが落ちる鈍い音がした。
 落としていた。携帯を。床に。
 何秒か前、それは俺の手にあった。だけど、つい、落としてしまった。するり、と手から滑り落ち床へ。
 携帯は画面を下にし、床に落ちたままだった。俺が拾わないからだ。拾うことが出来なかった。そんな事よりも先程、携帯を落とす前、村雨から発せられた言葉に俺の全てが持っていかれていた。
「……え?」
 状況が掴めず、いや、村雨の言葉が理解できず聞き返す。村雨は、まるで天気でも訊かれたかの様に平然と答えた。
「あなたが好きだ」
 機械仕掛けみたいな、感情の乗っていない声が俺を好きだと言った。それも二回。俺が聞き返しちまったから。だから二回、村雨は俺に好きだと言った。
「あ、あー……つまり、その、これからもよろしくって事か?」
「おそらくだが、そういう意味ではないだろうな」
 へえ。ああ。そう。ふーん。
 空返事を繰り返しながら、落っことした携帯を拾おうと手を伸ばす。だが村雨が俺に向けて放った言葉の意味ばかりが、ぐるぐると頭の中を跳ね回り、拾う手まで意識がいかない。何度も何度も指先が床を掻き、ようやく携帯を捕まえたところで「つまり」と低い声が言葉を補足した。
「あなたに、私の特別となって欲しい」
 ごん、と。またもや携帯が落ちる。
 俺は、自分に向けられる気持ちに戸惑っていた。困惑ではなく、どうしてか、期待にも似た心模様だった。顔が熱い。どうして俺は今、照れるような気持ちになっているのか。どうして俺は今、辛く苦しい気持ちになっているのか。
 中腰のまま屈み、床と睨めっこを続ける。顔を上げることが出来ない。顔を上げてしまえば村雨と目が合うからだ。村雨に、こんなみっともない表情を見られたくない。いや、そうじゃない。みっともないんじゃなく、なんだか泣きそうになってる顔を、村雨に見られたくはなかった。
 床に視線を落としたまま俺は訊いた。
「……俺って、オマエに何か得になるようなこと、してやったか?」
「いや、ないな」
「だよな」
 喉から落っこちた俺の声は、暗く強張っている。まるで期待を抱く心を慰撫するように。
 だが俺とは違う声が、俺の問いに問い返してきやがった。
「純粋に、ただ、あなたを好いている」
 それでは駄目だろうか。
 まるで子供のような、ただ疑問に思ったことを口にしたような、そんなシンプルな声が俺に問う。それでは駄目か、と。
「私は別に、あなたとビジネスパートナーになりたい訳ではない」
「……」
「ただ、あなたを大切にしたい。それだけだ」
 顔を上げ、男を見上げる。村雨は、見たことないぐらい優しい顔で微笑んでいた。だが目の隈が笑顔を邪魔し、邪悪にも見える。
「……大切って、例えば?」
「……」
 数秒、村雨が黙る。僅かだが俺の心に不安が差す。だが村雨はそんな俺に構わず、徐に答えた。
「毎晩、寝る前に私が診察してやろう」
「……は?」
「いや、夜だけでは不十分だな。朝も診察するとしよう」
「ただの主治医じゃねえかよ」
「あなたの担当になってやろう」
「おもっくそビジネスじゃねえかよ」
「報酬は不要だ」
「そういう問題じゃねえって」
「それで」
 村雨が仕切り直しのように訊き返す。それで、と。
 朝晩の診察付き、好条件なのか分からない言葉をぶら下げて俺に問う。大切にされてみる気はないか、と。
「獅子神、あなたの答えを訊いてもいいだろうか」
 村雨が手を差し出す。その手をぼんやりと眺めながら、俺は期待を抱く。
 どうして照れるような気持ちなのか。村雨の言葉が嬉しいからだ。
 どうして辛く苦しい気持ちなのか。村雨の言葉を真正面から返す勇気がないからだ。
 本当は、疾うの昔に気付いていた。この男に落ちきっている事実を。あとはただ一歩、前に踏み出すだけ。
「……俺は、オメーになんの提供もできねえけど」
「充分だ」
 床に落ちていた携帯を掴み、俺は差し出された手を握り返した。


top / main