お題「夜更かし」
本の上に本を積み重ねていけば、最初に置いた本が何だったのか忘れてしまう。
新しいカメラを手に入れたとしても、写真を撮っていけば、最初に撮った写真が何だったのか忘れてしまう。
焦がれていた相手とメールを交わしたとしても、時間が経てば最初のメールに何と書いていたのか忘れてしまう。
要するに、そういったことだった。当たり前の話だ。俺は忘れていた。ただ、それだけ。
これはガキの頃の話だ。ガキの頃、抱えていた錘の話。
それは終わりのない虚無感だった。吸っても吸っても、空気が肺に溜まらない感覚。どこへ逃げても捕らえられ苦痛に押し込められるような。そんな閉塞感が俺には常にあった。
全てに不自由を感じていた。貧しかった。ただ、ただ、息苦しかった。飢えてもいた。辛く、もがいていた。
だけど一番強く感じていたのは、果てのない怒りだった。無力な自分自身に、抗う力のない己に、ただただ怒りが収まらなかった。それで、ああ、それで。だから俺は家を飛び出したんだっけか。
家出、と呼ぶには俺を探してくれる人はおらず。散歩、と呼ぶには絶望的で。逃避、と呼ぶには果てがなく。だから、これは自傷に近かった。
フラフラと、当てもない足で夜の外を彷徨った。ガキの体では遠くには行けず、しかし家に留まるには世界を知り過ぎていて。
そんな時だった。
ふと見上げた夜空の、さざめくように光る星々に目を奪われた。
一瞬だが湧き溢れる怒りも鎮まり、俺に冷静さを取り戻させてくれて。そして純粋に、なんの混じりもなく、心から羨ましいと。そう思った。
どうして何万光年も先の光にそんな感情を抱いたのか。昔も今も漠然としていて明瞭には説明できない。だけど、ただ羨ましい、と。そう強く惹かれた。まるで心にも引力があるかのように。焦がれるような羨望を抱いたのだ。
その日から時偶、星空をみる為だけに夜更かしをし、外へと抜け出した。膝を抱え、手を伸ばすことなく、ただじっと見る為だけに。
だというのに、なんで俺はそれを忘れていたんだろうか。
叶と戦ってからどうしてか、昔のことを思い出すようになった。
まるでパンドラの箱だ。
封じていた蓋が開いた途端、箱の中は空になるまで詰まっていたモノを吐き出してしまう。そしてパンドラと違い、俺の昔日の記憶に希望は残されてやいなかった。
カーディガンを羽織りバルコニーへと出る。吐く息が白い。たった一枚羽織っただけでは寒かった。だが、家の中に戻るつもりも、毛布を取ってくる気も起きない。
一人掛けのベンチへ座り、空を見上げる。幼かった記憶と重ねるように。だが昔と違って夜空には雲が多く、星をみるのは難しかった。
そもそも明るすぎる都会では星空を望むことすら難しい。月ですら霞むほどだ。
過去を忘れていたのは、ここからじゃ星がきれいには見えないからだろうか。
息を吐き、手を擦り合わせる。夜が俺から体温を奪っていく。だがそれが心地良いと感じ始めていた。つまり、これも自傷だ。
眠れなかった。昔のことを思い出し、目が冴えてしまって。
指先が冷たい。氷水に手を浸したようだ。
叶との試合が終わってから昔のことを思い出すようになった。その殆どは無視できる記憶だが、時々、目が離せなくなる記憶がある。そんな時、俺の体は一時停止を押したように動かなくなり、落ち着ける場所を探してしまう。
だが落ち着ける場所なんて思い付かず、つい、記憶に行動を重ね自傷のような行為に走ってしまうのだった。
顔を手で覆い、深く息を吸い込む。
どうしてだろうか。今まで忘れていたというのに、蓋の開いた記憶は気まぐれに現れたと思ったら悪戯に俺を苛んでいく。怒りを抱いた自分を、貧しく飢えていた自身を、願いを叶えようと足掻く己を。それらを過ぎた時間の中から見つけた瞬間、過去の欲は記憶という形で現れた。忘れていたというのに。
「……っ」
「夜更かしとは感心せんな」
俺ではない声に驚き顔をあげる。すぐ側に村雨が立っていた。
「村雨、なんで」
肩からカーディガンが落ちる。村雨が屈み、落としたカーディガンを拾い上げ、俺に寄越した。
「流石のあなたでも、今夜は風邪を引く寒さだ」
「あ、ああ……」
冷え切った手でカーディガンを受け取る。瞬間、触れた村雨の手は、まだ暖かかった。
「なにを驚いている」
驚いている理由を知っている、にも関わらず訊いた。そう目が語っている。
「いや、その、起きてたと思ってなくてよ……」
「あなたが勝手にベッドを抜け出したのでな。目が覚めた」
「あ……」
謝ろうと口を開く。だが冷んやりとした指が俺の口に触れ、言葉の先を止めてしまった。
「話はベッドに戻ったら聞いてやる」
通り過ぎる風のように、冷たい指が俺から離れる。
「……話すことなんてねえけど」
村雨の、不機嫌そうな瞳が眼鏡越しに俺を映す。先と同じ、全てを分かっている目だ。ああ、と力が抜ける。お見通し、という訳だ。
「無理やり吐かすのは、趣味が悪いんじゃねえのか?」
「無理強いはしていない。ただ、頼る相手がいるのに無視とは良い度胸だ、と言いにきただけだ。一人で悩むのが趣味なら文句は言わんがな」
「へい、へい。なら聞いてもらうとすっか」
「ならば温かい物を淹れよう」
「そんなに夜更かしするつもり、ねえけど」
そう答えてから、いや、と言い直した。
「ちょっと長くなるかも……」
「心配するな。明日はオフだ」
夜空を仰ぎ、星がないのを確かめる。
「いや、別に大した話じゃねえんだよ」
村雨が静かに頷く。息が白い。寒そうだ。
「けど、まあ。聞いてくれんなら有り難え、かな」
「あなたの気がおさまるまで話せばいい」
それに、と村雨が続ける。
「夜更かしのついでだ。なにか肉でも焼きながら話すのが良いだろう」
「いや、腹へってるだけだろ、オメー」