お題「バレンタイン」


 朝、目が覚めリビングに向かうと、獅子神がキッチンで何かを作っていた。驚き、大声を上げそうになったのを、既のところで堪える。というのも昨夜、私は誰も居ない自宅に一人で帰宅したはずだからだ。なのにどうして。
 三度ほど目を擦り、ああ半月ぐらい前にやった合鍵で上がったのか、と合点した。次に、何を作っているのか気になった。しかし寝起きの脳は重く、私は目先の疑問を解消するよりもまずカーテンを開け、朝の日差しを浴び体を目覚めさせる事を優先させた。
「やっと起きやがったか、ねぼすけ野郎」
 なにかを炒めながら獅子神が云った。先ほど驚きで声を上げそうになった事は黙り、耳だけを獅子神に向けて答える。
「まだ午前だ。寝坊と云われる筋合いはない」
 組んだ指を天へと突き出し、軽く伸びをする。背骨からポキポキと軽い音がした。
「あと少しで正午だろ」
 はあ、と曖昧な相槌を打ち時計に目を遣る。確かに秒針と分針の距離は近く、二本とも天を指している。だとしても午後ではない。
「もしかして、まだ眠てえのかよ」
 ああ、とまた曖昧な相槌を打ち近くの椅子を引く。寝起きの体は重く、とりあえずどこかに腰を下ろしたかった。私の脳は、まだはっきりと起きてはいないようだ。
「ほら」
 座ったと同時にコーヒーが出され視線を上げる。獅子神が「起きなきゃ起こそうと思ってただけだ」と、ばつが悪そうに言った。私はまだ何も言っていない。そもそも獅子神が私の生活を把握していると知っていても、それを指摘するつもりはなかった。それに、眠気に揺れる体には、獅子神が淹れてくれたコーヒーが嬉しい気遣いなのも事実であるし。
「すまない」
「いや、別に……」
 なぜ恥ずかしそうにするのか。
 もう慣れてしまったが、どうやら獅子神には優しさをわざわざ隠そうとする癖がある。まるで嫌われて欲しいかのように。変な男だ。隠していても気持ちなど分かるというのに。
 獅子神が背を向け、キッチンへと帰っていく。私は出されたコーヒーを有難く頂くことにした。
「あとちょっとでパンも焼けるからな」
「ジャムは多めにするよう。バターも一緒に」
「知ってるって」
 マグに手を添え、淹れたての熱を享受する。氷が溶けるように、指先が熱に解されてゆく。眠っていた脳も温かさに目を覚ましたのか、先から疑問に思っていた事をやっと訊く気になっていた。
「いつから来ていた」
「八時ぐらい、か、それよりちょっと前だな」
「早いな」
「オメーが寝過ぎなだけだろ」
「……ところで、あなたはさっきから何を作っている」
「作り置き」
 首を傾げる私に獅子神は「晩飯とか、昼でもいいけどよ。オメーが腹減った時にレンジですぐ食えるようなモン、作ってやってんだよ」と答え、トースターから皿に手際よくパンを移した。
「なるほど。だが腹が空けば、あなたの家へ行けばいいだろう」
「いや、自分でどうにかしろよ」
「あなたの家の合鍵も貰ったのだしな」
「不法侵入を許す為に渡したんじゃねえって」
「恋人の家は侵入ではなく訪問だと、世間では言われているが」
 とん、とん、とん、と。まな板の上で何かを切る音が聞こえてきた。私が座っている場所からでは、獅子神がなにを切っているのか見えない。コーヒーの入ったマグを傾け、黒い水面を眺めながら「つまり」と続けた。
「突然だな、と言いたかった」
「言い方、他になかったのかよ」
 雑に答えながらも獅子神の手は切ったナニカを皿へと乗せ、冷蔵庫を漁ってから、ジャムとバターをパンへ塗っていく。私の要望通り、どちらも多めのはずだ。
「ほら、前に言ってただろ」
「なにをだ」
「作り置き」
「言った覚えはないが……」
「月頭ぐらいに、なんか、食えるモンが欲しいって」
「……」
「手作りじゃねえと駄目だ、とか。煩えぐらい言ってきやがっただろうが」
「……」
 淹れてもらったコーヒーを飲みながら記憶を辿る。確かに私は、二月に入ってからそれとなく獅子神へ強請ったのだ。手作りの贈り物を。
「けど最近、忙しくてな。オメーも仕事で全然会えねえし。それで今日しか時間取れなくて、今作ってやってんだよ」
「……なるほど」
 もう一度、マグに手を添える。中身が半分まで減ってしまったせいか、手に伝わる熱はぬるくなっていた。
「あなたの心遣いにはいつも感謝している」
「なんだよ改まって」
「今日の作り置きの礼は、三月に返させていただこう」
「は?」
「もちろん、三倍だ」
「はあ……」
 三秒ほど獅子神が停止し、やがて全ての点が線となって繋がったのか、顔を手で覆いながら「マジかよ」と呻いた。
「……バレンタインか?」
「構わん。私はあなたの作るものなら全て嬉しいのでな」
「いや、そういう問題じゃなくて」
 そう言った獅子神の顔は赤くなったり青くなったりと、後悔と羞恥の混じった色を晒していた。言わない方がよかっただろうか。責めるつもりは、当たり前だが、毛頭も無い。それに今の今までバレンタインというイベントを忘れていた男が、こんなキーワードぐらいで思い出すとも思っていなかった。
「オメーって、イベントとか案外気にすんだな」
 不本意な言われ方に口をへの字に曲げる。確かに、過去の私ならイベント事など気にはしなかっただろう。
「……あなたと一緒に居るからだ。バレンタインなど気にするようになったのは」
 そもそも誰の所為でこんな、慣れていないが故に回りくどい言い方をし、挙句伝わっていなくて恥ずかしい思いをしているのか。胸に手を当てよく考えて欲しいぐらいだ。いや、全ては素直に伝えれなかった私の所為か。まあ、どちらでもいい。
 獅子神は気不味そうに下唇を指で弄い、睨むように彼方へと視線をやっている。かと思えば突然、決然とした面持ちで私に向き直り「頼む」と切り出してきた。
「今日一日、時間が欲しい」
 まるで大切な秘密を打ち明けたような、そんな獅子神の真剣さに直ぐには反応できず、私は呆気にとられた。
「……所詮は企業の商業戦略に過ぎないイベントだ。私もそこまで大事に捉えては」
「いや、そうじゃなくてよ」
 片手を前へ突き出し私の話を遮る。そんな獅子神に目で先を促した。
「俺も、その、オメーとこういう、イベント事みたいなの、楽しみてえだけだから……」
 言葉にしてから、みるみる赤くなる獅子神の顔を眺め、冷めてしまったコーヒーを啜る。なにかで口を塞ぎたかった。冷静になりたかったのかもしれない。初々しい獅子神の反応に浮かれてしまう心を落ち着けたかったのかもしれない。
 だけど疾うの昔にはっきり目が覚めた頭は、私をもっと慣れない行動へと駆り立てさせた。
「なら、私もなにか、あなたに贈り物を用意したい」
「え?」
「あなたにバレンタインの贈り物をしたい」
「……バレンタイン、もうとっくに過ぎてんだろ」
「チョコである必要はない」
「適当すぎねえ?」
「バレンタインはとっくに過ぎている……のだろう?」
「……まあ、なんでもいいけどよ」
 ほら、と。ジャムとバターがたっぷり塗られたトーストがテーブルへと置かれる。皿の端には小さく切られたチーズが添えられていた。前に獅子神と行ったスーパーで何の気無しに購入し、二人して旨い旨いとつまみながら、一晩で食べ切ってしまったチーズだ。覚えていて用意してくれたのだろう。
 ありがとう、と伝える前に空となっていたマグへおかわりのコーヒーが注がれた。湯気が顔に当たり、眼鏡が白く曇る。身を引けば、不完全な視界で獅子神の顔が見えた。頬を薄桃色に染め不機嫌そうに笑っている。よくわからない表情だ。
「……ところで獅子神、あなたはなにが欲しい?」
「いや、本人に訊いちまったら意味ねえだろ」


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