お題「空」「求める」
寂しさで目が覚める朝がある。
そんな朝は大抵、苦しさに飛び起きる。まるで呼吸が止まっていたかのように。大汗をかきながら必死で息を吸い、その所為で酸素が勢いよく肺を叩く。
夢か現かも曖昧な認識の中で、寂しさは俺を暴力的に起こすのだ。そんな忙しなく中途半端な覚醒から身を起こし、暫く宙を睨みながら呆け、それから手で顔を覆い今度はゆっくりと息を吐きながら、俺は現実を慎重に手繰り寄せるのだった。
寂しさで目が覚める時、俺は確かに夢を見ていたはずだ。だというのにどんな夢を見ていたのか、目覚めてしまうと一片だって思い出すことが出来ない。だが漠然とした寂しさが胸に重く残っているのを自覚する。俺はこの胸に居座る重さが未だに慣れない。顔を覆っていた手で喉元を摩り、身を守るように背を丸め「落ち着け、落ち着け、俺は満たされてる」と慰めるように唱える。こうすると早かった鼓動が落ちつき、虚だった目の焦点が現実へと合っていくのだ。
時々、俺は寂しさに魘され目が覚める。
そんな目覚めを迎える朝があるのだった。
叩くと高い音が鳴るのは、中が空っぽだからだ。
過去の俺は叩けば高い音の鳴る空っぽってヤツだった。
別に空っぽだろうと世間は構わないだろう。中身が詰まっているからといって、それが幸福とは限らない上に人間は見えるモノしか見ていない。中身が空だろうが、毒だろうが、自分に害がなければ知らぬ顔だ。だからこそ、このコンプレックスはただの自己満足に過ぎなかった。
寂しさで目が覚める朝がある。
その日も寂しさに胸を叩かれるような、そんな最悪な目覚めだった。
「……っ、っは」
ベッドから勢いよく上体を起こし、口を大きく開けながら酸欠の魚みたいに息を吸う。それから滲む視界を隠すよう手で顔を覆い、ゆっくり、ゆっくり、沈むように息を吐いた。
「……落ち着け、落ち着け」
「何をしている」
心臓が口から飛び出るかと思った。実際はベッドから転がり落ちそうになりヘッドフレームにしがみつきながら声の方、いつもの丸眼鏡を掛けていない村雨を凝視しながら、驚きに痛む心臓を必死に宥めていた。
「な、おい、え、むらさ、え」
名前を呼ぼうとしたが、言葉が舌の上でもつれて意味のある形にすることが出来ない。そんな俺を、隈の濃い目が訝しむように見る。
「随分と驚いているな」
「い、いや、その、じゃなくて」
「私が居ることにより何か不都合でも生じたか。だが昨夜、ここへ誘ったのは獅子神、あなたの方だと記憶している。なら恨むべくは私ではなく自分自身だとは思わんか」
俺はまだ何も言っていない。だというのに村雨はマシンガンのように喋り、そして満足したのか、眠そうに目を擦って布団を被り直した。
「……」
「それで獅子神、あなたはさっき何をしていた」
「……続いてたのかよ、その話」
「無論、当たり前だ」
村雨の言葉に沈黙で返す。数秒前の村雨なら失礼だと怒ったかもしれない。だが俺の顔色がよっぽど悪かったのか「言いたくないのなら構わない」とだけ言って、まだ現実の感覚が薄い俺の手に骨張った自身の白い手を重ねてきた。
「ゆっくりで大丈夫だ」
「だから、べつに……」
村雨の手が俺の手を握る。強くは握られていない。だけど俺はその手を振り解けなかった。
「悪い夢でも見たか」
「そんなんじゃ、ねえけど……」
「どこか痛むのか。顔色が悪いようだが」
「だから、そんなんじゃ……」
体が重い。いや、重いのはもっと内側の、自分では触れられない場所だ。
例によって例の如く、寂しさが俺の心に重く残っている。漠然とした寂しさが、俺を苛むように。やはり、と言うべきか。見た夢は一片だって思い出せなかった。ただ寂しいという感覚だけが残っている。この男の隣に居る今も。
手を握られているというのに現実の感覚は酷く弱い。
「……悪い夢とか、そんなんじゃ、ねえんだ」
「獅子神?」
「夢、なんて……」
呼吸が早くなる。
体が重いのは、心に舵を取られているからだ。なぜだか、そう思った。
現実という感覚が微弱だ。まるで夢の中にいるみたいな。
そうだ。俺は夢を見ていた。なのに目覚めると忘れている。
本当に?
「獅子神、私を見ろ」
いつの間にか村雨が上体を起こし、俺の背に手を回していた。温かい手が俺の背を摩る。
自由になった両手で布団を弱く握った。
現実感はまだ俺の元へとやってこない。まるで暗示にでも掛かっているような、膜が一枚、俺と現実の境に張っているような不思議な心地だった。
息を浅く吸い、ふ、と短く吐く。
「……寂しいんだ」
そうだ、夢を見ていた。幼い日々の夢だ。
思い出せなかったのは、思い出したくなかったからだ。
だから、気持ちだけが心に残った。
「俺にはなにもねえから、寂しい」
夢が覚める。現実がやっと俺に追いつく。それから、先ほど自分が発した言葉を思い出し、驚いて顔を上げた。
今、俺はなんと言った?
「あ、いや」
すぐに訂正しよう、と。言葉を必死で探す俺に、村雨が静かに言葉を重ねた。
「寂しいのは、満たされた時を知っているからだ」
「え」
村雨らしくない詩的な言葉に戸惑う。いや、俺の無意識な言葉に言葉が返された事の方が驚き、戸惑った。だが村雨は自由になっていた俺の手をもう一度掴むと「脈が早い」と素っ気なく返すだけだけで、言葉の意味を教えてはくれない。なんだか継ぎ接ぎされたような会話だ。
「……勝手に人の脈測ってんじゃねえよ」
「顔色が悪いのは寝不足からか」
「おいって」
「……無い、と感じるのは、有る、という状態を知っているからだ」
「はあ?」
理解の遅い俺を無視し、村雨が続ける。
「万全な状態を知っているからこそ、不足した時に気づくことができる」
手はまだ握られている。俺の脈は今、どんな早さを打っているんだろうか。
「満たされた事があるから、寂しいなどと感じるのだ」
「……満たされてるって?」
「あなたがどんな夢を見たのか。私は知らないし、説明されても理解は出来ないだろう。夢を解析すれば心だって解剖できるが、私の興味は専ら肉体だ。そもそもだが、私は寂しいなど感じたことが無い。そんなモノに心を囚われている暇はないからだ。しかし、あなたの気持ちを蔑ろにする気も、私にはない。寂しいと感じるのなら満たしてやりたい、と。そう思っている」
村雨が視線を上げる。目が合う。眼鏡を掛けていない村雨は、いつもより柔らかい表情をしていた。
「それに私は、あなたに有益な時間を与えてやれている、と。そう自負もしている」
村雨の言葉に唖然とし、それから、可笑しさに思わず声を出して笑った。
「なにを笑っている」
笑う俺に今度は村雨が戸惑う。先までの泰然とした余裕はない。怒っているような困っているような、不思議な顔をしていた。
「いや、悪い。……その、お医者様の言葉通りだって思ってよ」
「あなた、馬鹿にしているな」
「いや、全然」
「ならなぜ笑っている、マヌケ」
「いや、その面白くなっちまって」
そう言っている最中にも思い出し吹き出してしまう。そんな俺に村雨は不服そうに、だけどほんの僅かだが安心するような笑みを見せた。
「ごめんって」
今度は俺から、村雨の手を掴んで握った。骨張っていて白い、村雨の手だ。俺に寂しさなんて覚えさせやがった男の手。脈が早いかは分からないが、温かい手だと感じている。
「俺にはオメーが居るから、寂しいなんて感じるようになっちまった」
「そうか、なら存分に私を求めろ」
自信満々な男の言葉が、不思議と俺の心を軽くしていく。信頼できる、と知っているからだ。
村雨の肩に頭を預け、瞼を閉じる。張り詰めていた緊張の糸が解けてゆくのを自覚した。
繋ぐ手が温かい。満ちた現実が空っぽだった俺に注がれてゆく。ああ、と。安堵の声が漏れた。
「あなたの手は随分と温かいな」
「……眠てえから、かもな」
「なら眠ってしまえ」
眠り過ぎないよう、後で起こしてやる。
囁くように言った村雨の言葉に、俺は甘えることにした。