二日目の一番乗り


 八月二十八日。
 時計の短針が十二を過ぎた時間。村雨礼二はやっと、獅子神敬一の家へと辿り着いた。
 一度のチャイムで開いた扉から、玄関の灯りが微かに溢れ、夏の夜に滲んで消える。夜の中で屋内の灯りに照らされた村雨礼二は、寝起きのような顔で口を開いた。
「遅くなってすまない、獅子神」
「いや、ありがとな、村雨」
 入れよ、と獅子神敬一に促され、影のような男が冷房の効いた家へと上がる。獅子神敬一の家はどこも空調が効いており、玄関ですら涼しく心地が良かった。やっと夏夜の暑さから解放されたからか、村雨礼二はいつもよりゆっくり屈み、脱いだ自身の靴を揃えた。
 村雨礼二は疲れていた。いつも眠そうな顔は長い労働の後だからか、疲労の色が強く出ていたし、目の下の隈もいつもより濃く見える。満身創痍、と呼んでも差し支えない状態だろう。それでも、彼は獅子神敬一の家に来た。いや、来なければならなかった。本当は、日を跨ぐ前の二十七日には、この家に着いている予定だったのだ。
 八月二十七日は、獅子神敬一の誕生日であった。
 村雨礼二は彼の誕生日を祝いに、疲労困憊の体を引きずってやって来たのだ。
 なにも獅子神敬一が無理にでも祝えと言った訳ではない。寧ろ彼は、誕生日なんてあっても無くても同じものだと思っている。特に、自身の誕生日は。子供の誕生日にわざわざ祝うような家庭ではなかったのだ。ただ生まれた日、というだけで、予定のない平日と変わりない。家族に見守られてケーキを囲むなんて情景は、物語の中にしか存在しない。誕生日が特別なのは御伽話の中だけだと思うような、そんな人間であった。
 では、どうして村雨礼二がこんな状態でも祝いに来たのか。正しく彼が、家族に見守られてケーキを囲むような、御伽話のような情景の中で幼少期を過ごしたからであった。
 そして今である。
 リビングに通された村雨礼二は棒立ちであった。労働の後で頭があまり働いていないのである。そんな彼の右手にはひしとケーキボックスが握られていた。それを音もなく差し出す。差し出された獅子神敬一も、どうしてか音もなくケーキボックスを受け取った。
「……」
「……」
「……なんか、食うか?」
「余り物があるだろう」
「ご明察だな」
 ま、座れよ。そう促され、村雨礼二は側にあった椅子を引き、ようやく腰を下ろした。
 獅子神敬一がご明察、と答えたのは、まさに数時間前、真経津晨をはじめいつもの面子が獅子神敬一の誕生日を祝いに来ていたからであった。といっても彼らは、誕生日にかこつけてパーティーを楽しみたい気持ちの方が大きかったが。だが獅子神敬一にはそれで良かった。自分が主役で居るのは、パーティーに参加できていない彼の前だけで良いと思っていたからだ。彼とは、村雨礼二のことであった。
「おお、なんか、すげえな」
 ケーキボックスから現れたホールケーキは、苺が輪を描くように整列している日本式のオーソドックスなショートケーキであった。真雪のように真っ白な生クリームはキメが細かく、苺の艶は上から蜜をかけたかのようで。一目で高いケーキなのだと分かる。
 そんな完璧なケーキの上にズブリ、とチョコの板が突き立てられた。村雨礼二がチョコプレートを素手で突き立てたのだ。
「あ」
「なんだ」
「いや、折角綺麗だったのによ」
「よく見ろ、マヌケ。主役はこっちだ」
 村雨礼二の長い指がチョコプレートを指す。つられ、視線をそちらにやれば、ミミズのような文字がチョコプレートに書かれていた。
「なんだ、これ」
「私の字が読めんのか、マヌケ」
「オメーの字?」
 もう一度、顔を近づけ目を凝らす。獅子神敬一がチョコプレートと睨めっこし始めてから数秒後、それが「お誕生日おめでとう獅子神」と書かれているのだと解読できた。
「……オメーってこんなに字、汚なかったっけ?」
「湯煎したペンで字を書くなど、文明人にあるまじき蛮行だ」
「要するに、熱かったんだな」
「……」
 村雨礼二は何も答えなかったが、その顔は不慣れな作業を指摘され少々不機嫌だ。
「まあ、でも」
「……」
「こういうの初めてだからよ、結構、嬉しいわ」
「……嬉しい、か?」
「ん、まあ、わりとな」
「……もっと喜んでもかまわんが」
「いや、かまえよ」
「私が祝っているのだから、もっと喜ぶべきだ」
「いや、いきなり態度デケェな」
 そう突っ込むが、獅子神敬一の心は大きく揺れていた。ミミズのような文字の書かれたチョコプレートを眺め、目を細める。贈り物など大人になってから数えきれないほど貰ってきた。少年期に得られなかった物も、全て。だというのに不恰好なチョコプレートは、今まで貰ってきた全てが霞んでしまうほど愛しく思えた。
「獅子神」
 名を呼ばれ、獅子神敬一が顔を上げる。彼の眼前にはどうしてか、ケーキの前でダブルピースを決める、疲れ切った顔の村雨礼二が居た。
「ど、どうしちまったんだよ」
「写真を撮れ、獅子神」
「は?」
「さっさと撮れ。手が疲れてかなわん」
 はあ、と呆れながらも獅子神敬一は自身の携帯でケーキと、疲れた顔の村雨礼二を写真へとおさめた。そうすれば次は「携帯を貸せ」と、骨張った手がぬっと伸びてきて。それにも素直に従い、携帯を渡す。
「……なんだ、あなたの携帯は……設定がわからん……こうか……いや、違うな……」
「お、おい。変なところ弄んなよ」
「黙っていろ」
「いや、それ、俺の携帯」
「……完璧だ」
 ほら、と返された携帯を見て、獅子神敬一は驚きケーキの上へと落としてしまいそうになった。すんでのところでキャッチし、改めて携帯の画面を見る。どういう訳か、待ち受け画面が先ほどの写真になっていた。
「なんだ、これ」
「……誕生日プレゼントまで用意する時間がなかったのでな。詫びだ」
「プレゼントって……」
 もう一度、勝手に変更された画面に視線をやり、そしてとうとう耐えきれずに噴き出してしまった。
「だはははっ!」
「笑うほど変な写真だろうか」
「いや、違えって、なんつーか、最高だなって思ってよ」
 高そうなホールケーキに、ミミズみたいな字の書かれたチョコプレート、その後ろには疲れ切った顔の村雨礼二。思いがけず忘れられない誕生日になってしまった。
 大笑いした所為で濡れた目元を拭い、獅子神敬一は村雨礼二へと向き直った。
「ありがとな、村雨」
「……おめでとう、獅子神」


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