祝福、または
獅子神という男を一言で表すなら、マヌケだ。
もう一言つけるなら、お人好し。
寂しい、と初めて感じたのは、車中であった。
運転席には獅子神が、助手席には私が座っていた。
銀行からの帰りだった。といってもギャンブルをした訳ではなく、事務的な用事の為だったが。偶然、私と同じく銀行に用があった獅子神と、ロビーでばったり出くわした。
偶然の出会いではあったが、私達は久し振りという訳でもなかった。獅子神と最後に会ったのは半日前、約十二時間ほど前の、獅子神邸の玄関先である。昨晩、仕事帰りに獅子神の家へと寄り、そのまま泊まらせてもらっていたからだ。
最近の私達はというと、なんだか友達のような恋人のような、よくわからない関係をダラダラと続けている。それに対して不満はなく、獅子神も同様に不満はないようで。お互いに締まりの無い時間を過ごしては解散して、なんて時間を重ねていた。
つまるところ、何もしていない。
ロビーの壁際、私の姿を確認した獅子神が「おい」と声を掛けてくる。獅子神よりも先に、目立つ金髪へと気が付いていた私は、その簡単な挨拶に片手を上げて目の前まで歩いていった。
爪先を揃え、立ち止まる。私より数センチ高い獅子神は、嬉しさをちょっとだけ滲ませた表情をしていた。それをきゅっと、口を一文字に結んで隠そうとしている。
「あなたの家で夕食でもどうだ」
形の綺麗な眉が僅かに動く。
「いや、なんでテメーが俺を、俺の家に誘ってんだよ」
「私の家でも構わない」
「人の話聞けって」
お前な、と呆れた素振りを見せるが、獅子神も満更ではないらしく「車回すから待ってろ」とだけ言い残し、スタスタと銀行から出ていってしまった。私は命じられた通り、壁際のソファーへと腰掛け、獅子神の車を待つことにした。
お互いの気持ちを確認したのは、偶々だった。
少し前のギャンブルで受けた電流の後遺症が無いか、定期診察の為に獅子神邸へと赴いた時だ。あの時のことは、今もはっきりと覚えている。
私が来るから、と獅子神は朝から手料理を用意し、食器まで揃えていて。それどころか、診察用ではあったが、私専用の椅子まで新しく用意していて。
すっかり私を信頼し、不用心にも親切と笑顔を振りまく男に、余程私のことが好きなようだな、といつもの軽口をたたいたのだ。
静かだった。
私のふざけた言葉には、何も返ってこなかった。不自然なほど空調の音が大きく聞こえ、時間が止まったように世界が動かなくなって。怪訝に思った私は顔を上げて獅子神へと視線をやり、そして私も黙ってしまった。
目の前の、お人好しで絆されやすい男が、真っ赤になって黙っていた。視線は私を直視しないよう彷徨いながら、顔を真赤に染め、自覚し初めた気持ちに戸惑っている。
私が診察しなくとも、きっとこの家に雇われているという雑用係が見たって、これは冗談に対する反応では無いと指摘するだろう。それ程までに分かりやすかった。
そして、この時、私もこの男のことが好きなのだと、そう自覚した。
車内で二人、他愛もない話をした。時々、ナビがあちらへ行けだとか、こちらに行けだとか、案内という名の指示を飛ばしてくる。いつも通り、締まりのない時間だ。
今、二人で過ごす時間に不満はない。むしろ、満たされている、とさえ思っている。それでも私が抱える寂しい、と思う感情はどこからやってくるのか。
感情が生まれる場所、なんてモノは無い。全ては脳の電気信号が刺激の報酬を繰り返しているだけ。しかし抱えてしまった感情の前に、知識なんてモノは何の役にも立たない。
車窓から見える空は、もうすっかり夜だ。街の色は繁華街から、閑静な住宅街へと塗り替わっていく。
「何が食いたい?」
運転しながら獅子神が問う。チラリとこちらを見た目は穏やかで、今、私達の間に流れる時間がお互いにとって安らかなものだと分かった。
「あなたの得意な料理が良い。野菜以外でな」
「遠回しに肉って言ってるようなモンじゃねえかよ」
そう怒ったように言って、クスクスと、内緒話をしているみたいに笑う。眠りに似た安らぎが私の手を取る。だけど、やはり、寂しい。
夜空に月が出ていた。星はない。丸い月がぼんやり浮かんでいて、夜に穴が空いているみたいだった。
「今日もあなたの家に泊まっていいだろうか」
「俺が駄目だって言っても、テメーは泊まるんだろ」
「……私が泊まるのは、嫌か?」
「いっ……」
獅子神の頬が赤く染まり、誤魔化すように咳払いをひとつする。
「……嫌じゃねえよ」
「……ふ」
ふふ、と緩んだ口許から笑みが零れる。私も咳払いをし、浮かれた気持ちを誤魔化した。
「……獅子神」
「なんだよ」
獅子神の目線は前に向けたまま、しかし意識はこちらに向いている。お互いが、お互いの言葉に向き合って耳を傾けている。だから、私は質問した。
「私が好きか」
「……は⁉」
キキッ、と高い音がタイヤから鳴った。急ブレーキをかけたのだ。体が前方へとつんのめり、背もたれへと深く押し付けられる。獅子神はというと、事故を起こしかけた事実と私の発言に、真っ赤になったり真っ青になったりと百面相をみせていた。
「……気をつけろ」
「テメーが変なこと聞くからだろ⁉」
「変だっただろうか?」
「あ?」
眉根を寄せ、獅子神が黙る。構わず、続けた。
「あなたに好かれたいと思うのは、変だろうか」
車内には、私の声だけ。
「言葉にして確認したいと思うのは、可笑しいだろうか」
「……」
「寂しいと思うのは、私だけか?」
「そういう聞き方は、狡いだろうが……」
信号が赤へと灯り、車が停まる。車内には重い沈黙が満ちていた。
狡い。先ほどの言葉を反芻する。狡いのだろうか。狡いのかもしれない。こんな逃げ場のない場所で、自分の気持ちを一方的に押し付けるのは、確かに狡いのかもしれない。
「……獅子が」
「好きに決まってんだろ」
唐突だった。ぽんっと投げられたような。そんな言い方だった。
「……は?」
「……オメーが聞いてきたんだろ」
顔は前を向いたまま、獅子神が続ける。
「オメーのことが……村雨が、好きだって。そう言ってんだよ」
これで満足かよ、と真っ赤な顔で悪態をつく。信号機の赤が、車内を赤く照らしている。私はなぜか、いや寂しかったから、それとも好きだと言われたから、だからか。獅子神へと手を伸ばし、その肩を掴んで無理な体制からキスをした。
「……は?」
何が起きたか分からない、なんてマヌケ面を晒す。そんな獅子神を無視し、耳許で捲し立てるように言い切った。
「今夜、あなたを抱く」
薄く青い目と、目があった。濡れているみたいに爛々としていて。ああ、私も今、こんな目をしているのだろうな。と、他人事のように思った。
パァン、と騒々しいクラクションの音に遮られ、その刹那的な邂逅から現実へと引き戻される。前を見れば信号は青で、私達は同時に「あ」と、マヌケな声を出した。
急かされていても、獅子神が運転する車は静かに前進する。静かな車内、聞こえるのは車の駆動音だけ。指先にはまだ、先ほどの熱が残っていた。
先程のキスは夢のような非現実さがあった。けれど、今もなお真っ赤に顔を染める獅子神を見て、現実だったのだと再確認した。
寂しさが、いつの間にか薄らいでいる。
気持ちを確かめ合ったからか、それとも関係性に形が芽生えたからか。それとも、言葉にしてしまったからだろうか。
抱く、と私は言った。少しだけ、気持ちが逸る。
獅子神という男はマヌケでお人好しで、正しい人間だ。私はこの男に、随分と心を持っていかれている気がする。だが、それでいい。
触れたいという気持ちも、抱きたいという気持ちも、寂しいという感情も、愛しいという感情も、全ては脳の電気信号と物質の応酬だ。だからといって、こんな年で罹る思春期のような病が治る訳でもない。は、と息を吐く。熱を孕んだそれは、早く獅子神の家に着かないだろうか、という自分勝手な望みだった。
「私もあなたの事が好きだ」
「……」
「獅子神?」
「……」
「聞こえなかったか? 私もあなたが好きだ」
「きっ、聞こえてるっつーの‼ テメー、ワザとだろ⁉」
もう学習したのか、必死に安全運転を心掛けながら狼狽える獅子神が可笑しく、クスクスと小さく笑った。笑われたのが恥ずかしくなったのか「うるせえって」と獅子神が悪態をつく。可愛らしいと感じるのは年下だからか、それとも獅子神だからなのか。
マヌケでお人好しなこの男は、紛れもなく私の人生に必要な人間なのだろう。出会いは偶然であったし、関係を結んだのもまた偶然ではあったが。それでも、この出会いは必要なものだった。
ナビが突然、この先十メートルです、と高い声で案内する。前を見れば獅子神の家がもう目と鼻の先だった。
夜空の月は上りきり、今は私たちの頭上で輝いている。月光に照らされた車内は温かく、心地がいい。触れてしまえる距離に獅子神が居て、言葉を交わせる場所に私が居る。
寂しさはもう、私の手から離れ、どこかへ行ってしまった。