雷雲


 岩が砕けるような音がした。雷の音だ。近くで落ちたのか、轟音はかなり近くで聞こえた。
 他人の家、というより村雨の家だったが、開いていたカーテンを勝手ながら閉めさせてもらう。閉める間際、漆のような夜空に光る筋が見えた。雷だ。それから、また轟音。
 雨と雷で荒れ狂う天候はまるで天罰のようで、幼い頃に漠然と抱えていた不安感が、時を経てむくりと顔を覗かせそう。なんて妄想が俺の心を騒つかせる。幼い頃の俺は常に不安定だったのだ。
 記憶の奥底に居座っているガキは、常に惨めったらしくて、情けなくて、なのに目だけは世界の全てを恨んでるんじゃないかってぐらいギラついていて。自己嫌悪の夢を見ては、吐くモノすら持っていないというのに、蹲って動けなくなっていた。
 冷たい汗が首筋を伝う。一度、手で顔を覆い、深く息を吸った。最低最悪な過去を思い出した。これだから雷は嫌いなんだ、と独りごちる。
 カーテンをぴっちりと閉じきり、安全な家の中、リビングへと戻る。リビングでは村雨が、いつものソファーで本を読みながら寛いでいた。
 そんな男の横へ当たり前のように腰掛ける。村雨に倣って俺も、読みかけていたネットのページの続きを目で辿っていれば、なんの前触れもなく声を掛けられた。
「何か恐ろしいものでも見たのか?」
 唐突に聞いてくる村雨に「あ?」と不良のような返事をすれば、骨ばった手が読んでいた本を閉じる。
「顔に不安の色が出ている」
「……」
 俺は、適当に誤魔化そうか、それとも素直に白状するかを迷い、結局そのどちらでもない事を言った。
「不安なんかねえよ。テメーといると、なんとなく安心って思うからな」
 なんとなくだけどな、と笑ったが、笑っていたのは俺だけだった。村雨は、鳩が豆鉄砲を喰らったような、それ以外では形容し難い顔で俺を凝視していた。
「お、おい……笑う所だからな」
 骨ばった手が眼鏡を掛け直す。
「私が笑うと思ったのか」
 ああ、いや、と自信のない声が出た。村雨の剣幕に押され、言葉尻が弱くなる。そんな俺に構わず村雨が続ける。
「あなたの言葉を、私は笑ったりはしない」
「……そうかよ」
「あなたは私に、随分と気を許しているらしい」
 隣に座っている男を見た。村雨は、いつもの仏頂面だった。
「おい、なんの話だ」
「少なくとも、一緒にいて安心だと感じる程には、気を許しているのだろう」
「分析してんじゃねえって」
「私はそれを、嬉しく受け止めている」
「恥ずかしいからやめろ」
「私も」
 寝不足みたいな目が、俺を見た。
「私も、前はもっと、一人だった」
 今度は俺が驚く番だった。村雨の豆鉄砲を喰らい、口を開いて、閉じて、また開いたが言葉が見つからなくて。
 沈黙。から、村雨がポツリと呟く。
「不安も共有したいと思うのは、変だろうか」
 声は平坦で、なんの感情も乗っていないように思えた。だからこそ、切実な問いなのだと感じた。
「……俺が、その答えを知ってると思ってんのか」
「それもそうだな」
 ザアザア、と雨の音が強くなる。雷の音は、気がつけば聞こえなくなっていた。雷雲は遠くに行ってしまったのだろうか。
「別に」
 カーテンの方を向く。空がどうなっているかは、ここからじゃ全く分からない。
「別に、怖いモン見たわけじゃねえよ。嫌なこと思い出しただけだ。小せえ頃、デカい音とか、苦手だったんだよな……って」
 村雨は何も言わず、静かに頷いた。視線は柔らかく、寄り添おうとしているのが分かる。
「ずっと不安だった……気がする」
 俺の声は小さく、自信が無さそうで、我ながら情けない。しかし村雨は、嘲る事も茶化す事もしなかった。ただ黙って俺の話に耳を傾けているだけ。ただそれだけが、どうしようもなく安心する。
 雷雲はどこかへ行ってしまった。雨は降り続けている。村雨は、雨が降り止むまで側に居てくれた。


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