クマのクッキー
「COOKIE」と立体的に彫られた文字を、指の腹でなぞる。それは可愛いらしいクマのイラストが描かれた、ブリキのクッキー缶だった。
ロゴの周りには音楽隊に扮したクマが満遍なく描かれており、全体的にピンク色でまとめられている。ここの家主が持っているのが不気味なぐらいには、可愛らしい。
クッキー缶は一度も手を付けられていないのか、蓋との境目に透明なシールが貼られたままで。持ち上げてみれば、当たり前だが、中はしっかり入っている重さがあった。底面をひっくり返して賞味期限を確認する。それから、見つけた場所へとクッキー缶を戻した。賞味期限は来月であった。
見慣れないクッキー缶を見つけたからといって、リビングへと戻った俺がそれを話題に出すことはなかった。というより、その必要がなかったというか。なんとなく俺と家主、もとい村雨との間では、互いのプライベートを詮索しない雰囲気があった。俺たちは、あまりお互いのことを話さなかった。
だから、そのクッキー缶の事もすぐに記憶の底へと沈み、見えなくなったのだ。
その日は、いつもより暑い日だった。
毎朝のルーチンをこなし、昼食も終え、少し時間に暇ができた時だ。家のチャイムが鳴った。ベルのような鈴のような、高い音が家に響く。
雑用係である園田たちに対応させようとしたが、タイミングが悪く家の買い出しで居なかった。必然的に、対応できる人間は俺だけしかおらず。仕方がなく、書斎から出て階段を下り、インターフォンの呼び出しに応じた。小さな画面越しに、よく知った男が立っている。黒い影のような、死神みたいな風貌の男だ。チャイムを鳴らしたのは村雨だった。
「疲れた」
死神のような男がズカズカと家に上がり、勝手にソファーへと腰を下ろす。それを軽くたしなめながら、俺も後に続きリビングへと入った。
我が物顔で人の家に上がった村雨は開口一番「私は疲れている」と、謎の申告をしてきた。知らねーよ、と思いつつ冷蔵庫で冷やしていた茶を出してやれば、疲れているらしい男が静かに茶を啜る。
突然訪れた村雨は「疲れた」なんて言葉で訴えてはいるが、涼しげに茶を飲む姿はいつも通りに見える。寧ろ、濃い影のような隈が、今日は幾分か薄い。いつもと違う匂いが服からしたのは、自宅ではない所に長い時間いたからか。
どこに行っていたのか聞こうかと思った。が、やめた。聞いた所で意味がないと感じたし、はぐらかされた時に気まずくなると思った。代わりに違う問いを差し出す。
「何しに」
来た、と続けようとしたが、不意に後頭部へと目が留まる。黒い髪を後ろにまとめるみたいに、ピンク色のクマが付いた髪留めが、村雨の頭に付いているのに気がついた。
「っ、なんだ」
「まて、動くんじゃねえって」
突然手を伸ばす俺を不審がる村雨の髪から、クマの髪留めを外してやる。硬い毛質の髪から救出されたクマの髪留めは子供用なのか、手のひらに乗せるとオモチャのように感じた。
「ついていたのか」
驚いているのか、村雨が三白眼気味の目を見開いている。
「後ろにな。気付かなかったのかよ」
「好き勝手されていたからな」
「子供でも相手にしてきたか?」
「そんなところだ」
村雨の白い手が差し出される。返せ、ということなのだろう。素直に返せば珍しく「ありがとう」と返された。
「そういえば、前にもクマは見たな」
「なんの話だ?」
記憶の中にクッキー缶が思い浮かぶ。ブリキ製で可愛いクマが描かれた、まだ開けられていない缶。大切なモノだから、開けずに置いていたのだろうか。
「クッキー缶。テメーの家で見つけたな。あれもクマだった」
「そうか。クマは、最近のお気に入りらしい」
「は?」
「兄の子供だ」
「はあ」
兄の子供、と聞いても後続する情報は何一つ思い浮かばない。村雨と親や兄弟の話をしたのは、賭場での会話が最後だった。
「この髪留もお気に入りなのだと、私に見せてくれた」
「お気に入りなのに他人の頭につけ忘れたのかよ」
「そう言うな。向こうのうっかりとはいえ、返してやらねばならんだろ」
「へえ。まあ、良かったじゃねえか。テメーならちゃんと返してくれそうだしな」
「当たり前だ」
白く長い指が、クマの顔を撫でる。それから、聞いてもいないのに村雨が続ける。
「クッキー缶は、父の日に貰ったモノだ」
「オメーはいつの間に父親になったんだよ」
「マヌケ、私はついでだ」
「ついで」
父の日のついでってなんだ、と思ったが、口にはしなかった。大方、俺の知らない文化だろう。俺は、父の日どころか母の日すら、何かをしてやった記憶はない。
「テメーの家はイベント事が多いな」
「……」
白く長い指がまた、クマの顔を撫でた。しかし次は、沈黙だけが俺たちの間に流れる。
村雨の親戚の子供について、俺は存在しか知らない。写真も見た事なければ、名前だって知らない。そもそも俺自身、子供が得意ってワケでもない。というより、苦手だ。子供が、じゃない。そいつらを通して見える、見たくないモノが、苦手だった。
「別に、特別な事じゃない」
低く静かな声が、言葉を発した。
「深い意味はない」
「何がだよ」
「兄は優しい人間だから、独り身の私に気を遣っているだけだ」
はあ、と間の抜けた返事が出る。
「私にはあなたが居るし、あなたには私が居るだろう」
「何が言いてえんだか」
村雨の言葉が指すモノを理解できずにいると、クッキー缶だ、と薄い唇が呟く。
「クッキーの缶を見つけたなら、言えば良かっただろう。私はあなたに隠し事はしないし、する必要もない」
白く長い指が、クマの顔を撫でる。村雨が続ける。
「寂しいなら、寂しいと言えばいい」
「……は?」
咄嗟に言葉が出なかった。図星だから、とか、的外れだから、とかじゃない。言葉の意味が分からなかったからだ。
「寂しい?」
村雨が首肯する。俺は、やっぱり意味が分からなかった。
「話の繋がりが分かんねえよ」
「それは、あなたが寂しさを知らないからだ」
「意味わかんねえって、だから」
「寂しさの意味を知らなければ、寂しいという状況を正しく診断できない、と言っている」
言葉を受け止め、ゆっくりと問う。
「つまり、なんだ。俺がずっと寂しがってるって言いたいのかよ」
「そうだ」
また、言葉が出なかった。今度は、村雨の言葉の意味を正しく理解したからだ。
「……勝手に決めつけんじゃねえよ」
真っ直ぐに俺を見る目を、俺は見れなかった。床に落ちる自分の影が濃い。暗く沈んだ自分の声だけが、明瞭だった。