夜明けのような


 体温が灼けた鉄のように熱く、触れている唇が火傷してしまいそうだった。それほど熱かったものだから、唇を離してしまうと外気の冷たさが一層気になってしまう。散ってしまった熱をかき寄せるように獅子神の体を抱きしめると、首に欲を孕んだ吐息が当たった。互いに求め合っているのだと、それだけで分かる。
 もう一度、手繰り寄せようと思った。まだ足りなかったからだ。久しぶりだから、恋しかったのもある。
 獅子神の手に指を絡め、もっと強く、濃く、深く繋がろうと顔を近づけた。
「あっつ……」
 目を伏せた獅子神が、滴る汗を雑に拭う。手を伸ばして額に張り付いた金髪を掻き上げてやり、揺らぐ藍色の目を見つめた。夜と朝の境のような色の目が、美しい。
「獅子神」
「ん、わかってる」
 私の体を跨ぐように座る獅子神の腰を掴み、引き寄せる。私より上背があるというのに、その体は容易く私の上体へとなだれ込んできた。
 互いの熱が昂っているのを全身で感じていた。
 首に手を回され、それに答えるよう背に手を這わす。啄むように唇を食み、欲に身を任せるように舌を絡ませた。頬に獅子神の汗が滴り落ち、そのまま枕へと垂れ落ちていく。
「オメー、ほんとに……」
 顔を上げた獅子神が、上機嫌なのか笑顔で私を見下ろす。なんだ、とその頬に触れれば、擽ってえって、と笑って身を捩られる。
「何を言いかけた」
「ああ、いや」
 獅子神が柔らかく笑う。
「村雨、オメーってキス好きだよな、と思って」
 頬に触れていた手が止まる。言われた言葉を暫く考えた。
「いや、キスが好きなのは、あなたの方だろ」

 この会話から約一週間は経った。あれから、キスどころか触れてすらいない。
 あの夜獅子神とは、どちらがいつもキスを強請ってきているか、前はお前からだった、その前はあなたからだった、なんて下らない事で言い合い、仕事終わりで疲れていたこともあって何もしないで寝てしまった。
 寝て起きれば、また元通りになっているだろう。この時の私はそう思っていたのだが。こんな私の考えは甘かったようで。朝、起きてすぐの獅子神に「おはよう」と肩を叩けば、怯えた猫のように飛び上がり、ぎこちないな挨拶を返されたのだった。
 それは今現在も続いている。
「獅子神」
「っお、おう」
「……襟が曲がっている」
「あ、ありがとな……」
 曲がっていた襟に触れようと手を伸ばせば、静電気が弾けたように獅子神の肩が跳ねた。
「……」
「……」
「す、すまねえ」
「ああ。うん」
 気まずい空気が流れ始め、つい顔を顰める。そんな私の様子に、獅子神が申し訳無さそうに眉尻を下げて口を開く。が、言葉はなく。何かを逡巡している様を見せつけるだけ見せつけてくる。普段であれば「何が言いたい」なんてせっついてやったりするのだが、心当たりがありすぎる今はそれすらも心苦しい。結局居た堪れなくなった私は、退散するように書斎へと引っ込んだ。
 一週間前、あの下らない言い合いが起きた日から、獅子神は妙に私を警戒するようになった。触れれば感電したように驚き、声をかければゼンマイ仕掛けの人形みたいにぎこちない。まるで初対面の他人だ。いや、それより酷いかもしれない。これは由々しき問題なのだろう。
 だが生憎、私はこういった問題解決にあたるための手段を持ち合わせていなかった。困った。

「村雨、あーその、なんか飲むか」
 状況が改善しないまま、あれからまた一週間が経っていた。やはり、私達の間には進展するものはなく、状況は停滞したままで。
「いただこうか」
 何もないまま、何もない、という状況に順応し始めていた。
 私の為に珈琲を淹れる獅子神を、目だけで追う。
 他人行儀でも獅子神は親切かつ面倒見のいい男で、そういう所が好ましいのだ、と最近の私は改めて獅子神や自分の事を観察していた。観察し、客観的に見つめ、俯瞰し。そしてやはり、今の状況に対して形容し難い、焦りに似たナニカも感じていた。
 淹れてもらった珈琲の香りを堪能し、口をつける。相変わらず淹れるのが上手い男だ。
「……し」
 名前を呼ぼうとし、やめた。また警戒されるだけだろうし、なんだかんだで、そういった態度をとられる度に積もるストレスも大きい。世間ではこれを傷ついた、というらしい。私にはよく分からないが、いつも感じるストレスと種類が違うのは確かだった。
「美味いな」
 名前の代わりに感想を伝えれば、微かに喜びを滲ませた獅子神が「そうか。よかった」なんて言って目を細める。触れてしまいたかった。いつもであればとっくに触れていた。触れてもいいだろうか。
「……」
「……」
 互いの間に無言の時間だけが流れる。いつも何を喋っていたか。特に会話らしい会話はしていなかったかもしれない。だけど、ここまで沈黙が重いと感じたことは無かったはずだ。
「……」
 手を上げ、少し宙を彷徨ってから、机へと手を置いた。
 何も掴めなかった手を見つめ、そのまま手元の珈琲へと視線を移す。何か喋ろうと思い目を瞑ったが、自分でも驚いてしまうぐらい話題が出てこない。一体、いつからこんなポンコツになったというのだろうか。
 私も警戒していた。のかもしれない。警戒なのだろうか。変な妄想が私の中でパチパチと弾けては消えていくのだ。本当は私に対して愛想尽きているんじゃないか、だとか、獅子神の中で触れてはいけない地雷に触れてしまったんじゃないか、だとか。全て目を見れば違うとわかるのに、そんな根拠のない妄想が私の中で尽きない。馬鹿馬鹿しい。しかし、苦しい。
「……」
 逡巡する。このまま他人行儀な関係を続けるのか。できれば前の様に話したい。謝るべき事はなんなのか。一体、どうしてこうなったのか。
 色々考え結局、賭ける事にした。慣れるのと受け入れるのは、全然違う。要するに我慢の限界だった。
「……獅子神」
「っ、なんだ」
「……」
 無防備だった手に手を重ねれば、また肩が跳ねる。だがそれは見なかった事にした。逃げられたくない一心でやった事だったが、罪悪感がちくりと私を刺す。一時だけ、許してほしい。
 視界に映る私の指先が白く、無意識に力を入れていたことに気付く。二、三度深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。喉がヒリつく。緊張していた。訳を聞いたら、この手を退けるつもりだった。
 ゆっくりと、私は口を開いた。
「……流石の私も、傷つくとは思わんか」
 ぎょっとしてしまい、思わず口を結んだ。自分で自分の言った言葉に驚いていた。私は今、私が考えていた事と全く違う事を言ってしまったのか。
 すぐに訂正しようとしたが、今まで感じたことのない感覚に呑まれ、私は声の出し方を忘れてしまった。
 意図せず吐露してしまった感情が、私の形に成ってひたりと添う。吐き出してしまった感情が自分には不思議なほど馴染みのあるモノだと、そう強く感じて動けなかった。
 いや、と思いなおす。私は知っていたのに、知らないフリをしていたのだろう。とうの昔に諦めてしまったから、今の今まで忘れていたのだ。傷つくという事を、それが辛く悲しいモノだという事も。理解できなかったんじゃなく、理解していたから諦めていた。ああ、と自然と声が出る。
「そうか、傷付いていたのか、私は」
 一人でそうかそうか、と納得していれば、私に手を握られたままの獅子神が「えっと、その、ああ」なんて情けない声を出して狼狽えていた。顔を覗き込むように見れば、慌てた顔が真っ赤に染まる。どういう反応なんだ、これは。
「えっと、だな、村雨、その」
「獅子神、謝罪が必要なら言ってくれないか。だから、訳が聞きたい」
「あー、いや、そのだな……」
 モゴモゴと獅子神が口籠る。それから、私に握られてない方の手で自身の顔を覆い「違う」と弱々しい声で呟いた。
「テメーはその、悪くねえよ」
 目を伏せた獅子神が顔を手で覆ったまま続ける。
「その、だな。前に言い合いになっただろ」
 二週間前の話だ。今の状況のきっかけともなった夜。
「あれで、その、寝てる時に色々と考えて……」
 獅子神が何かを言いかける。私は物音ひとつ立てないよう、静かに耳を傾けた。
「実際そうなのかもなって思ったら、すげー恥ずかしくなってきて、それで、オメーの顔がまともに見れなかった。だけだ。その、傷付けて、すま……ごめん」
 顔を覆った手の隙間から、深い藍色の目と合った。夜と朝の境のような、私の好きな色だ。
 言葉はすぐには出てこなかった。満杯のバケツをひっくり返したように思考が頭の中で氾濫していく。けど、全ての思考を飛び越えて「それだけか」という素直な感想が、口から真っ先に飛び出した。
「それだけ、かもしれねえけどよ」
 獅子神が弱々しく反論する。
「ああ、いや、失礼」
 軽く謝ってから、自分の中でも羞恥心のようなモノが芽生えてきているのに気づく。顔が熱い。重ねた手はそのまま、獅子神から視線を外した。
「私もすまなかった。必要以上に触れたいと思うのは、私も同じだ」
「必要以上って、変な言い方だな」
「……言い直そう」
「言い直さなくていいって」
 ふ、と声を出して獅子神が笑う。私は安心の方が大きくて笑おうにも笑えず、不恰好な形になっていた。うまく笑えないまま、先ほど自覚しなおした感情に突き動かされ、つい約束を取り付けてしまう。
「また、以前のように接してくれると、助かる」
 少し間を置いてから「ん」と短い返事が聞こえた。それから「もう大丈夫だからよ」と重ねて返される。振り返って獅子神の顔を見れば耳まで真っ赤で、視線は全く私に合っていなかった。
「……いや、大丈夫に見えないが」
「見てんじゃねえって……」
 あまり期待はできないな、とようやく私は笑った。


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