触れれなくて 見えなくて 隔てるもの


 口許に手を当て、小さく咳をした。それを、医者が目敏く指摘してきた。
「風邪か」
 そう指摘され、嘘を吐こうかと迷ったが、無意味だと考えて止めた。
「先週ちょっと体調崩しちまってな」
「先週……」
 医者、もとい村雨が宙を見上げ考える。先週の記憶を辿っているのだろう。先週の俺たちはお互い忙しく、間がすっぽりと抜けてしまったみたいに会っていなかった。
「お前も俺も、お互いの事で忙しかったろ」
「そうだったな」
 思い出したであろう記憶に言葉を足してやれば、仏頂面が静かに首肯した。
「最近、いきなり寒くなってきたしな」
 空っぽになっていた自分のカップに珈琲を注ぎ足す。カップから立ち上る湯気が白い。
「上着とか出してこねえと、だな」
「そろそろ衣替えの時期か」
「オメーは夏場もほとんど長袖じゃねえかよ」
「アナタは服の生地に種類がある事を知らないようだな」
「冗談だろ、怒んなよ」
 笑おうとして、また咳が出た。顔を背け、咳を押し留めるように口へ手を当てる。くぐもった音の咳が、自分がまだ万全でないのだと嫌でも理解させた。
「大丈夫か」
 珍しく皮肉も嫌味もない、素直な心配の言葉を掛けられる。それが余計に心をちくちくと、申し訳なさだろうか、それとも別の何か、自分が名前を知らない感情か、それが俺の心を刺してきた。
「……大丈夫、ちょっとまだ引きずってるみてえだな」
 口をへの字に曲げた村雨が、俺をまっすぐに見ていた。またチクリと心が痛む。
「熱は出たのか」
「え」
 先週だ、と村雨が先ほどの質問に言葉を付け加える。
「ああ、少しだけ……」
「診察は受けたのか? 薬は? どれ程長引いた?」
「お、おい、ちょっと落ち着けよ」
 次々と繰り出される質問の洪水を止めようと、手を前へと突き出した。ちょっと落ち着けよ、と。
「風邪自体は治ってるし、咳もこう見えて、だいぶ軽くなってんだよ」
「答えになっていないが」
「聞けって。薬は飲んでるし、病院も行った。熱は出たけどよ、そんなにだったぜ」
「そんな事は聞いていない」
「じゃあ何が聞きてえんだよ、オメーは」
「一言」
 白く細い指が掛けていた眼鏡のブリッジを押し上げる。
「一言くれれば、それで良かった」
「……あ」
 ここにきて、村雨に一言だって連絡を入れていなかった事に気が付いた。いや、連絡を入れる事を避けていた、と言った方が正しいかもしれない。避けておいて、その事自体忘れていた。
「す、すまねえ」
「……私だって人並みには心配だってする」
 ごめん、そう返そうとして、また咳が出た。
「……次は、ちゃんと連絡すっから」
「約束しろ」
 一瞬、書面か何かを差し出されるのかと思ったが、村雨は小指を立てた左手を眼前へと突き出してきただけだった。その、幼くも見える行動に少しだけ呆気にとられる。
「……ガキかよ」
「子供ですら出来る連絡ができなかったのは、どこの誰だ」
「分かったっつーの」
 村雨の小指に自身の小指を絡め「ゆびきりげんまん」と音痴に歌いながら、小さく繋いだ手を上下に振る。そういえば、嘘をついたら針千本なんだっけか。この医者なら針どころか、嘘つきは腹を掻っ捌いて針は入っていないか、なんて確認してきそうだが。
「心細くは無かったのか」
 絡まっていた小指を解く際、呟くような声で村雨が聞いてきた。質問の意味を一瞬だけ考え、口を曲げる。
「ガキじゃあるまいし」
 村雨の目が、優秀な教官の様に俺を見る。なんだか色々と見透かされてるよな、と思ったが、言い直すことはしなかった。


 ◆


 遡ること、一週間ほど前の話だ。
 その日は、静かな夜だった。
 いつも聞こえる他人の生活音はなく、ただ自分の発する息苦しそうな呼吸音だけ。時折咳き込んで、その度に頭が痛み、目を閉じて苦しさを耐えている。それができる精一杯の、そんな夜だった。
 目を開くと世界の全てがあやふやで、ああ、目が悪くなるとこんな視界になるのかな、と答えをくれる人も居ないのに考えた。また目を閉じ、そんな思考も遠くへ追いやる。
 軽い風邪は何度かあったが、ここまで酷い熱が出たのは久々だった。体の節々が痛く、声を出すのも辛い。おまけに咳まで出てやがる。散々だ。
 家主がこんな状態なので、住み込みだった雑用係には暇を出していた。やたら看病したがっていたが、金を持たせて追い出し、家の鍵をかけて半ば無理矢理締め出してしまった。未練がましい視線を送りながら、とぼとぼと大通りまで歩く背を思い出す。タクシーぐらい呼べよ、とは思ったが、他人に気を回している余裕も無かった。すぐに背を向け、布団に包まって寝室へと籠もってしまった。そのまま、今の時間まで床に伏していた。
 手を伸ばし、時間を確認する。液晶画面に表示された時間は夜の九時を差していた。そろそろ何か胃に入れないと。そう思うが、熱のある身体は怠く、身を起こす事すら出来そうになかった。
 ぐるぐる、ぐるぐる。熱で朦朧とするのに、動けない身体は余計なことばかり考える。ここ最近の目まぐるしい日常が、頭の中で渦を巻く。そういえば、家で一人なんて何時ぶりだろうか。
 他人の生活音ひとつなく、微かに聞こえるのは自分の苦しそうな呼吸だけ。なんだか突然、住み慣れた自分の家が広く思えた。いや、元から広い家なのだから、これは余白が増えたという事なのだろうか。なにもない、心の余白だ。
「あ……やべえな……」
 布団に包まり、そう独りごちた。
 熱で溶けた思考が、いや記憶か。閉じていたはずの蓋が開き、咳と熱で怠い俺の身体へ覆いかぶさる。息苦しくてつい、強く目を瞑った。しかし記憶は、俺を押し潰さんとばかりに伸し掛かる。重く、苦しい。これは、自分が一番惨めだった頃の記憶だ。
 飢えと渇きに酷く苛まれていた頃の記憶が、際限無く自分の中で溢れ出す。抗えない奔流が、熱で魘される俺の体を攫おうとしてくる。被っていた布団を巻き込むようにして身を縮めた。じっと息を潜め、身を攫おうとする苦しみの果を待つ。静かな家で、一人。
 ふと、声が聞きたくなった。
 誰の。そう考えてから、死神然とした風貌の男を思い付くまで、そう時間はかからなかった。
 先程時刻を確認したタブレットを手に取り、液晶画面の明るさに目を細めながら通話アプリを呼び出す。それから、通話呼び出しボタンの前で指をかざしながら、全てを諦めて手放した。タブレットを投げ捨て、布団に包まりなおす。
 結局、ボタンは押さなかった。押せなかった、か。
 ボタンを押さなかった理由は色々ある。夜中に突然、それも病人からの電話など困るだろうと思った。それに自分の所属にプライドを持っている男だから、電話をすれば直ぐに来てくれるだろうと思って。そうなると、一方的に迷惑をかける事になるのが怖かった。それに万が一、感染させてしまったなんてなったら、最悪だ。
 逆にボタンを押す理由は、ひとつだって思いつかなかった。ただ、声が聞きたい。それだけ。それは理由になるのだろうか。いや、ならないだろう。
 布団を手繰り寄せ、強く目を瞑る。
 自分の中で満ちる余白には、気付かなかったフリをした。


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