ファーストトリップ
その男に初めて会ったのは、私の耳から音を失って間もない頃だった。
失った、とはいったが些か大袈裟な表現で。実際には、微かではあるが音は聴こえていたし、日常会話ぐらいなら相手の口許を診ていれば理解できた。それより、電子音のような耳鳴りが煩くて仕方がなく、そちらの方が私を苛んだ。鼓膜が破れていたのだ。
それもこれも、忌々しくも図々しい、真経津晨という男とのギャンブルに敗けたからだ。自業自得、と割り切れない程度には耳の傷は深く、私を煩わせた。
そんな真経津が、理解し難いのだが、私を賭場へと誘ってきたのだ。粗末な賭博場だった。そこに、あの男も来た。患者と医者という立場以外では一生巡り会わないような、そんな男が遅れてやって来た。
華のある男だった。
図体がデカく、派手な顔と髪の、声がデカそうな男、というのが第一印象。その次に、他のマヌケたちよりはまだマシそうだ、というのが診断。特筆すべき点も無ければ、掘り下げるような人間性も無いだろう。ただ、素直なのはいい心掛けだと、そう思った。
紆余曲折を経て、ひょんな事から三人で夕食を摂ることとなった。たまにはいいか、と魔が差したのだ。
そこで漸く、図体がデカく派手な顔と髪の声がデカそうな他のマヌケよりは多少はマシなマヌケ、もとい、真経津が呼んだ男が私の耳があまり聴こえていなかった事に気付いた。気付き、驚き、早く言え、と。言わなくとも診れば分かるはずだし、私がわざわざ説明する義理も無い。だが無駄な争いをする気力も無かった。今思えば、こんなことで言い争いするような男ではない、とはっきり言えるのだが。まあ、いい。話が逸れた。
男が私の正面まで体を移動させ、聴こえてなかったのかよ、と言った。聴こえていない相手に何を言っているんだこの男は、と呆れた。呆れ、特に弁明はしなかった。
男は、仕方がねえな、とでも言いたげに溜め息を吐き、トレーに乗せていたレシートを掴み裏を向けた。傷のある手が、アンケートを書くために置かれていたペンを手に取る。レシートの裏、ツルツルとした紙の面をペン先が走る。真っ白な紙の上には丁寧な字で「獅子神敬一」と。男の名前らしい。教えてもらわなくとも、メールのCCに入っていた名前ぐらいは覚えていた。だが、どうしてか私は「獅子神敬一」と、文字をなぞって声に出してみた。男が、獅子神が名前を呼ばれ、ニッと笑った。華のある笑顔だった。
村雨、と獅子神が私の名前を口にする。私は静かに頷き、レシート裏の字に視線を落とす。綺麗な字を書く男だ、と。そう思った。