花苑
応接間の窓から、ネモフィラやアセビが美しく咲く春の庭が見える。家主が棲家という場所が持つ意味を正しく理解しているのだと分かる、丁寧な庭である。そんな思慮深い家主は今、村雨礼二という男の目の前に座っていた。上品なロング丈のメイド服を身に纏って。
「獅子神、顔を上げたらどうだ」
「馬鹿だろオメー、マジで、馬鹿、くそ、馬鹿」
「著しく語彙が減っているな」
俯いていた顔を少しだけ上げ、獅子神が上目遣いで村雨を窺う。村雨は、ここ最近見た中で一番の笑顔であった。
「そんなに悲観する事もないだろう」
「テメーは着てねえから、そう言えんだろ」
「よく似合っているが」
「……はあ、どうも」
本心からの言葉であったのに、獅子神にはイマイチ届かなかったようで。村雨はソーサーからカップを取り、紅茶に口をつけた。まあいいか、と思ったのだ。
しかし、似合っているのは確かに事実であった。村雨でなくても、笑顔で答えるかはさておき、獅子神のメイド服姿を似合っていると答えただろう。というのも、身に纏っていたメイド服は安いコスプレ品の出来ではなく、しっかりとした作りの物だったからだ。
長身を包むロング丈のスカートは膝下まであり、レース刺繍のあるパニエは足を動かせば見える程度だ。パフスリーブの膨らみは上品な大きさで、真っ白なエプロンには控えめなフリルが付いている。本人の希望でフリルのカチューシャまではつけていなかったが、似合っていない、という事はなかっただろう。愛らしさは増すだろうが。
女性的なフォルムではなかったが、垂れ目がちの整った顔に、すらりとした長身の体躯である獅子神にとって、漆黒のメイド服はよく似合っていた。
「悪夢だろ、こんなの」
獅子神が弱々しく嘆く。そんな姿を、死神じみた男が笑う。
「喜べ、現実だ」
村雨の言葉通り、全て現実であった。獅子神が村雨と暇つぶしに始めたゲームに負け、相手の命令をなんでも聞く、なんて曖昧な罰ゲームを許し、そしてロング丈のメイド服を着る羽目になった。全て獅子神が招いた事であり、生々しいほどに現実である。
余談だが、メイド服は叶が悪ふざけで獅子神邸に持ってきて、いらないから、とそのまま置いていった物だった。それを、村雨は優れた頭脳で無駄に覚えていたのだ。
「……男のメイド姿なんか見て楽しいかよ」
「楽しいが?」
「怖いぐらい真っ直ぐな目して言うな」
ニヤリ、と村雨がいつもの、少し不気味な笑みを浮かべる。寒気がした獅子神は自身の腕を抱き寄せ小さく身震いした。今日の村雨はなんだか、ずっとご機嫌である。
「ところで」
カチ、とソーサーの上に置かれたカップが鳴る。村雨のカップの中は空になっていた。そのまま、ソーサーとカップがローテーブルへと置かれる。
長い指が掛けていた眼鏡を上げ直し、薄いレンズの向こうで冷たい視線が獅子神を射抜く。反射的に、獅子神はロング丈のスカートの中、タイツを履いた足を揃えた。
「罰ゲームはまだ終わってないが」
「……いや、終わっただろ」
少しの間。からの、反論とも我儘ともつかない言葉が返ってくる。
「いや、終わっていない」
「テメーは欲張りすぎだ」
「欲張ってはいない。ルールに忠実なだけだ」
「ルールじゃねえよ。欲に忠実なだけだろ」
む、と不満を隠そうともしない村雨が眉間に皺を寄せる。う、と獅子神は唸った。弱いのだ、この男は。
獅子神という男は、村雨という男の我儘に滅法弱い。しかし三歳も年上の男に負け続けてやるほど、獅子神も甘くはなかった。
「……あと一つだけだからな」
「承知した」
前言撤回。
許された村雨が「ひとつ頼もうか」と口を開く。ごくり、と唾を飲み込んだのは獅子神だ。我儘を許しておいてこの男は、村雨礼二というビックリ箱から何が飛び出してくるのか予測できず、緊張していた。
自身が招いた不幸を嘆くのは愚か者の証であったが、村雨という男の前では仕方がない事と言えるだろう。なにせ、この男は人より頭一個、いや二個、とにかく飛び抜けて優秀なのだ。人間の出来が違う。
|| もう何がきても、受け入れる。
獅子神の中で一つの決心がつく。覚悟、とも言える。
とにかく、心に決めた。不幸を嘆くのは停滞を意味する。進むなら、受け入れるしかないのだ。例え、エッチな罰ゲームを出されようと。
「では、紅茶のお代わりを頼む」
「……え?」
呆気にとられた獅子神に村雨が続ける。
「メイドなのだろう。奉仕だ。ティーポットの中はもう、空になっている」
はあ、と半ば放心状態で獅子神が答え、遅れて己の思考に恥ずかしくなる。思わず「紅茶、紅茶な、はいはい」など、不要な反応をとってしまった。目の前に座っている男の観察眼が優れている事実を忘れて。
「……私が、昼間から夜伽のような行為を求めると思っていたのか?」
「はあ⁉」
ほぼ、自白であった。顔を真っ赤にし、狼狽え、怒りをみせる。私はふしだらな要望を出されると思っていました、と書かれたプレートを首から下げているようなものだった。ふ、と村雨が笑う。滑稽だったからではない。可愛かったからだ。
「あなたが望むなら、そういった要望も出すが……」
「誰がやるか‼」
そう怒鳴るが、今の獅子神を見れば全員が「村雨の要望通りに応える」と予想するだろう。なんせこの男は、村雨礼二という男の我儘に弱いのだから。