灯のほとり
夜闇の中で手を開き、閉じる。薄ぼんやりとした闇の中でも、手の傷ははっきりと見えた。もう一度、手を開き、閉じる。すっかり目が覚めてしまっていた。
隣で寝ている男を起こさないよう身を起こし、ベッドから抜け出す。どう頑張っても寝れそうになかったから、珈琲でも入れようかと思ったのだ。
部屋を出る前、寝室の窓を閉めておこうと思った。今日は風が冷たいから風邪を引いてしまうかもしれない。
鍵に手を掛け、錠を下ろす。ガチガチ、と重い音がし、慌てて振り返った。鍵を閉める音が大きかったものだから、起きたのではないかと不安が胸に過ぎったのだ。しかしベッドで眠る男は規則正しい寝息を立てていて、起きる気配は微塵もない。寝ている男の脇を通り、そっと忍足で寝室を抜け、廊下へと出れば、足音を気にせずキッチンへと向かった。
他人の家だというのに、キッチンに置いている物は全て把握していた。というより、この家のキッチンの配置は全て自分が変えていた。というのも、ここの家主は手料理に対して杜撰だからだ。だから、料理ができる自分がこの家のキッチンを勝手に使い、勝手に変えていた。
水を入れたヤカンをコンロへと置き、火をかける。カップを用意して沸騰を待っていたが、どうにも暇を持て余してしまい戸棚を整理することにした。
リビングから椅子を持ってきて、それに足をかける。高くなった視界で戸棚を覗けば、大きなものから細々したものまで、沢山の「使わなくなったなにか」が埃を被っていた。それらを一つずつ確認していき、仕分けていく。家主の好みは大体把握していたし、だいたいの物は捨てるだろうと思ったからだ。
「泥棒かと思ったら、獅子神だったか」
突然、背後から声をかけられ、驚きで椅子から落ちそうになった。寸でのところで戸棚にしがみつき、事なきを得たが、心臓はバクバクと鳴ったままだ。
背後で湯が沸いたのか、ヤカンが鳴る。そんなヤカンと俺を、じっとりと観察するような目で村雨が見てきていた。
「起きてたのかよ」
「うるさくてな」
「悪かったな」
「掃除は昼にするといい」
「暇だったから整理してただけで、率先してまでテメーの家は掃除しねえよ」
ふ、と俺の言葉に村雨が笑う。その笑いにどういった意味が含まれているのか、分かりそうで分からなかった。
「コーヒーか」
「ああ」
「紅茶があったはずだ」
「へえ」
「その戸棚の中の、赤い箱だ」
「あんまり古いのは飲まねえほうがいいぞ」
「マヌケ、ポットの話だ」
ポット、と聞き返せば、それ、と村雨の長い指が戸棚の中を指す。指先を辿れば、確かに赤い箱が置いてあった。それを手に取って中を見る。箱の中には確かにプレス式のガラス製ポットがあった。
「……洗わねえと使えねえぞ」
「あなたは私を誤解してるようだな」
「冗談に決まってんだろ」
別に誤解してねえよ。いや、どうだろう。俺は村雨のことを、なに一つ理解していない可能性だって、ある。
乗っていた椅子から下り、箱の中をシンクへと置いた。プレス式のポットは洗うのが面倒だが、俺の物じゃないので大人しく村雨の要望通りにしてやる。
洗いおわったガラスポットを村雨へと手渡す。受け取った村雨はどこから出してきたのか、パック分けされていない紅茶の缶を左手に持っていた。それを目分量で二杯、ポットの中へと入れてプレスを真ん中まで下げると、ヤカンの熱湯を注ぐ。
ぐるぐる、ぐるぐる。お湯の中で茶色い茶葉たちが回わる。踊ってるみたいだな、と言いかけ、子供っぽいと笑われる気がして、口をつぐんだ。
「踊ってるみたいだな」
「え」
村雨の言葉に驚き振り返れば、茶葉のことだ、と仏頂面で返される。
「……踊ってるみたい、かもな」
恐る恐る、同じ言葉を口にしてみる。言葉は自分が思っているよりも素直に自分へと馴染んだ。
「私がこんな言葉を使うのは意外か?」
「いや、別に……そうじゃなくて」
なんだ、と低く静かな声が先を促す。
「珍しくテメーと同じこと考えてたから、不思議に思っただけだ」
「そうか」
「……なに笑ってやがる」
別に、と眩しそうに笑う村雨の肩を小突いた。
「獅子神」
いつもより明るいトーンの声が、俺の名前を呼ぶ。なんだよ、と少しぶっきらぼうに返す。
「一緒に住まないか」
「……は」
もう一度、驚きで村雨の方を振り返る。しかし村雨は、ガラスポットに視線を落としたままだった。
時間も思考も止まり、言葉を反芻する。が、しかし理解は追いつかない。
「な、なんで」
「二つの家を掃除するのは大変だろう」
「いや、別に掃除は嫌いじゃねえけど」
いや、違う。そんな事が言いたいわけじゃない。
期待されている言葉はわかる。提案に乗ればいいだけだ。だけど本心じゃなければ、この男はすぐに分かる。
じゃあ、目の前に差し出された手を取りたくはないのか。差し出された手を、跳ね除けたい訳じゃない。それだって、本心ではない。なら俺はどうしたいのか。俺の本心だけが、わからない。
咄嗟に意味のない言葉が、スラスラと俺の口から飛び出した。
「ざ、雑用係が二人もいる。あいつらの面倒、誰が見るんだよ」
「……私は、子持ちの女性を口説いてる訳ではないんだが」
「違う、そうじゃなくて」
村雨の骨張った手が、ポットのプレスを下げきる。紅茶の綺麗な飴色が一層、濃くなった。
「返事は今でなくていい」
ほら、と渡されたカップを受け取れば、背を向けた村雨が食器棚からもう一つカップを取り出す。それも手渡され、何も言わずに受け取った。
返事は今じゃなくていい。いずれ、また。いつか。
ポットを持った村雨がキッチンから出ていく。俺は、その背になんて言葉を掛ければいいかわからなくて、二つのカップを持ったまま、その背を追った。
雑用係のことなんて、村雨の誘いを断る要素にも満たない。でも俺は、すぐには返事を出せなかった。たかが住む場所を変えるだけ。それだけなのに、それだけじゃない気がした。いや、違う。場所の話じゃない。その提案に乗ってしまうことで、自分の立場が変わってしまう気がした。自分が、誰か一人に執着を持ってしまう気がして、それが恐ろしかったのだ。
先にリビングで待っていた村雨が紅茶を淹れる準備をしていた。向かいに腰掛け、村雨の動きを目で追う。ローテーブルに置いたカップに、飴色の紅茶が湯気を立てて注がれていく。深い茶葉の匂いが部屋に満ちていくのが、なんだか夢のように感じた。
「いい匂いだな」
「ダージリンだ。これは夏になる前に摘まれたもので、セカンド・フラッシュと呼ばれている」
「へえ、詳しいな」
「……」
「……なんだよ、その顔は」
「一緒に住めば、もっと教えてやってもいい」
「今、答えなくてもいいんじゃなかったのかよ」
「冗談だ」
本当に冗談かよ。
結局、村雨の提案について答えを出さないまま、俺は朝を迎えてしまった。