夜道


 屋根もない。雲もない。
 隠すものがない空は、砕けて散ったような星が輝く、そんな夜空が広がっていた。
 先まで溶けるような赤の夕空だった。それがほんの数分、コンビニでちょっと買い物をするだけの時間、その間に全く違う景色となっていた。冬の空は夏より急だ。いや、ただ夜が長いだけか。まあ、なんでもいい。
 肺に溜まっていた空気を押し出すよう、息を吐く。吐息はまだ透明で、冬の気配はない。空だけが、先に冬の振る舞いをしていた。
 赤褐色のタイルで舗装された歩道を歩く。歩きながら、また空を見上げた。
 夏の空より、冬の空の方が好きだ。理由は単純で、空気が澄んでいるから星がよく見える。ただ、それだけ。
 星が瞬くのは、地上と星の間に風が吹くからだそうだ。風のおかげで光が複雑に屈折し、きらきらと輝いて見えるのだと。そう、村雨が教えてくれた。冬の方が空気が澄んで星が見えやすい、なんてのも、教えてくれたのは村雨だった。
 小さい頃から星空は好きだった。のだと思う。
 幼少の記憶は嫉妬や憤怒といった感情ばかりが先立っていて、思い出はどれもぼやけて不鮮明だ。そんな曖昧な記憶を繋げて思い出すのは、よく家を抜け出して河川敷まで星を観に行った事ぐらい。足音を立てないよう、先に靴を外へと投げてから窓を跨ぎ、外へと逃げ出していた。と言っても、こんな真夜中の散歩がバレても、それを止める大人なんて俺の家には一人として居なかったが。
 夜空に赤い点が、ぼんやりと輝きながら浮かんでいる。火星だ。
 手を空へとかざし火星へと、目を通して指先で触れてみる。
 火星は、地球と同じように季節の変化があるらしい。地下には氷が眠っていて、遥か昔には海があったんじゃないかって、そんな話もあるのだと。
 まあ、火星なんて行く予定もないのだし、俺が知っていても意味のない情報だ。
 手をゆっくりと下ろす。目線の先に影があった。黒い影が、こちらへと向かって歩いてくる。目を凝らさなくても分かった。あんなに特徴的な人間は他に知らないからだ。こちらに向かって歩いてきているのは、村雨礼二だった。
「獅子神」
 俺に気づいたらしい村雨が大きな声で俺を呼ぶ。まだ距離があるというのに、せっかちな男だ。
「あなた、いつまで私を待たせる気だ」
 村雨はいつもの黒いスーツ、ではなく、俺の家に置きっぱなしにしているシャツとズボンを着ていた。それでも、いつもの死神然とした雰囲気は健在だ。そんな村雨が怒りながら歩いてきた。
「コンビニに何時間かけるつもりだ」
「何時間って。先に飯食ってろって言っただろ」
「家の主人を差し置いて食事を摂るような、そんな無礼な人間ではない」
「俺ん家来て早々、家主を差し置いて風呂入ってたじゃねえかよ」
「良い湯だったが」
「感想求めてねえって」
 肩を小突けば、やめろ、と振り払われる。だが機嫌が悪い訳ではないようで、俺が持っていた買い物袋をひったくると「さっさと帰るぞマヌケ」なんて言いながら骨張った手が、少々乱暴に俺の手を取った。
「あんま引っ張んなって」
「食事が冷める」
「だから先に食っとけって言っただろ」
「……」
「おい、聞いてんのかよ」
「……」
 俺の言葉に村雨は何も返さなくなった。
 ただ無言で俺の手を掴み、グイグイと引っ張る。我儘な子供みたいだ。本人には言わないが。
「あなた、今、余計な事を考えなかったか」
「別に」
「ならいいが」
 鋭い男に呆れながら手を引かれ、渋々、歩き始める。そんなに引っ張らなくとも家に帰るというのに。
 はあ、と息を吐き、顔を上げる。空は先ほどよりも、もっと夜の色を濃くし、ぼんやりと輝いていた星も今は明るく瞬いていた。
「……そんなに空が気になるか?」
「え?」
 目を前へと向ける。俺の手を引っ張っていた村雨が、こちらを振り返っていた。
「あ、いや」
「昨日、雨が降っていたからか。今日は星が見えやすいな」
「ああ、そう……だな」
 立ち止まり、二人、夜空を見上げる。空はきらきらと星が瞬いて眩しかった。
「実は、少し食べていた」
「は?」
 また、視線を村雨へと戻す。村雨は、ばつが悪そうな表情をしていた。
「夕食だ」
「なんの話だよ」
「夕食をあなたに言われたよう、先に手をつけていた」
「ああ」
「……鈍いな、あなたは」
「あ?」
 怪訝に思い、眉根を寄せながら荒っぽく返せば、村雨も眉間に皺を寄せ、ムッとした表情になった。
「私に最後まで言わせる気なのか?」
「だから、なんの話だって」
「あなたが遅いから心配したのだろ」
「は……はあ?」
 雑な手付きで村雨が自身の頭を掻き、だから、と荒い口調で続ける。
「あなたの帰りが遅いので、心配で迎えに来たのだろ。マヌケ、鈍感にも程がある!」
「心配……俺を、か?」
「他に誰が居る!」
 少しの間を置き、漸く村雨の言葉を理解した。それと同時に、らしくない行動に俺は驚いてしまった。
「し、心配って、ガキでもねえのに!」
「子供だ大人だ、など私にとっては問題ではない」
「いや、つうか、別に遠い場所でもねえし……」
「何処だろうが何歳だろうが、帰ってこなければ心配ぐらいする」
「……」
 返す言葉が見つからず、黙る。そんな俺に村雨が続ける。
「それに一人で食事など、つまらんだろう」
「……そっか」
 村雨が俺の顔を覗き込み、目を細め、首を傾げた。
「なんだ、文句があるのか、マヌケ」
「あ、いや……」
 言い淀み、悩む。こんな事、言っても仕方がねえよな、と。だが結局、俺は言ってしまった。
「そういうのが普通なのか、って。そう考えてただけだ」
「……」
「こうやって、帰ってこねえ事に怒られたりとか、なかったからな」
「……過去を偲ぶのは勝手にすればいい」
 目の優れた医者はやはり見逃しはしなかった。俺の内にある欠けたモノの形を診て、また叱る。先と違うのは、どこか諭すような声音が混ざっているところか。
「あなたは忘れっぽい男なのでな。私からも言ってやろう。自分が今、地に足を付けて立っている場所ぐらい、自分の目で観て理解しておけ。あなたが立っているのは過去ではない。今、この場所、私の隣だ」
 村雨を見れば、偉そうな笑みを浮かべていた。
「……偉そうだな、オメー」
「もう心配の必要は無さそうだな」
「オメーに言われなくても、自分のことぐらい分かるっつうの」
「なら、いい」
 それなら行くぞ、と村雨が俺の手を引く。引っ張られるまま、俺もまた歩き始めた。
 空を見上げる。ガキの時に観た夜空とは全然違っていた。今日の方が星がはっきり見える。
「村雨」
 前を歩く男の名を呼ぶ。村雨は振り返らなかった。だけど「なんだ」と、大きな声は返ってきた。
「迎えに来てくれて、ありがとな」
「……なに、気にするな」
 村雨の手を解き、繋ぎなおす。隣へと小走りで並べば、同じ場所へと帰るために俺たちは歩いた。


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