つぎの駅
ガタン、ゴトン、と電車の駆動する音が振動となって体に伝う。疲れ切った体を揺さぶられながら、夢の淵をウロウロと千鳥足で彷徨い、目的地まであと何駅あるのかを耳だけで確認する。
帰り道だった。
そして向かっているのは自宅ではなく、私のために食事を用意してくれている男の家だった。
今夜はシチューを作ると言っていた。脳裡に滑らかなミルク色が過ぎる。腹が減った。焦ったい気持ちが私を急かす。これは、夕食がシチューだから、という訳ではない。別にメニューが変わったって、なんの問題もなかった。問題なのは家路へと急ぐ私の心だ。
それは儀式や契約に似ている。行為に意味のあるやり取りだった。そう、これは約束だ。今夜はなにが食べたいか。今夜はなにを作るのか。今夜は何時までに帰るのか。そういった約束を交わすのが、最近の楽しみとなっていた。
だから早く、私を待つ男の家へと帰りたくて、心が焦れる。
日々、時間が掌から零れ落ちるように過ぎていく。時間と共に変化していく世界で、獅子神と会う時間は私を現実へと繋ぎ止める杭のように思えた。抗えない怒りに、目を背けれぬ苦しさに、そういった逆剥けのような心に自我が囚われ我を見失いそうな時。記憶が私を杭となってここに留めてくれる。足元を照らす灯火にも似ていた。私にとって獅子神は大切な繋がりだった。だからどうか、と切実に願ってしまう。どうか、あの男にとっても、私との時間がそうであって欲しい。
私は約束があれば、どうしてか、無事に家まで帰れる気がしていた。だから獅子神にとっても同じであって欲しいと、そう願っている。
電車が停まる。扉が開き、多くない人の数が乗り降りをし、また扉がしまった。ガタン、と嘶くように一度揺れ、また先のようにガタン、ゴトン、と鉄の体を震わせながら出発する。振動によって、ほんの僅かだが掛けていた眼鏡がズレた。
次は、と明瞭な声のアナウンスが次に停まる駅を告げる。私が降りなければならない駅だ。そこからタクシーを拾い獅子神の家へと向かう。たった十分強の道程。
携帯を開きメールを一通だけ送った。あと少しで着く、とだけ打ち込んだメールだ。なにも受信しない携帯をしばらく眺め、疲れの混じった溜め息を吐き、役目を終えた携帯を鞄へ無造作に突っ込んだ。
窓外へ目を転じる。外は夜だ。明るさに負けたガラス窓が、私の顔を青白く映している。目の隈がいつもより濃く見えたが、気のせいかもしれない。不意に私の名を呼ぶ獅子神の声が鼓膜に蘇り、先より強く心が焦れた。早くあの男の顔を見たい。見ても面白くない自分の顔から目を逸らし、瞼を閉じる。
記憶をひらく。今朝交わした約束を反芻するように辿ってゆく。
今朝、獅子神は、夕食にシチューを作るのだと言っていた。食パンを齧り、まだ眠気が取れずぼんやりする私に、いつまで寝ぼけてんだよと呆れながら。オメーは何時に帰ってくんだよ、と。
どうせ沢山食うんだろ。獅子神がニヤニヤと笑いながら問う。
当たり前だ、と答えれば、満更でもなさそうな男の顔。