淡く溶ける


 春だった。
 枝から零れ落ちそうな程に桜が咲いていて、しかし冬の名残を抱いた風は冷たく、目覚めたばかりの鳥たちは寝ぼけているのか、電線や欄干に留まりじっとしている。舗装された道路は桃色に染まっていて、昼の日差しが眩しく照らしていた。
 普段であれば景観を楽しもうなんて気持ちは微塵だって湧かないが、春だったからか、足を止めて桜を眺めていた。薄い水色の空に、白っぽい花弁の桜。世界がパステル調で、なんだか眩しく感じる。そうやって突っ立っていた私に「先生」と誰かが声を掛けてきた。
「村雨先生!」
 振り返り、その姿を認識する。見覚えのないシルエットは、だからこそいつかの患者なのだと思い出せた。
「お久しぶりです」
 軽く会釈し、向き直る。いつかの患者の名前はまだ思い出せない。しかし、患っていた病はカルテの隅まで覚えていた。そうだ、確か姓は石川といったか。
「どうですか、調子は」
 そう尋ねれば、かつての患者はボディビルダーのようなポーズをとってみせ、自分がいかに回復したのかを嬉しそうに語り始めた。まさしく、語る、であった。そう思えるほどに長い話だったからだ。いつかの患者は真面目にリハビリも行っているようで、病魔に侵される前よりも元気になったのだと熱弁する。街頭演説であれば拍手物だが、生憎聞いているのは私だけだ。私はというと、さっさと話を切り上げてしまいたくてしょうがない。頃合いを見て、やや強引であったが、私はやっと話を切り上げる事ができた。ふう、と息を吐く。
「オメーも一応、外では社会人やってんだな」
 聞き馴染みのある声がし、咄嗟に振り返る。余計な言葉に睨めば、いつの間にか私の後ろに立っていた獅子神がニヤニヤと笑っていた。
「盗み聞きとは、趣味が悪いな」
「別に、盗み聞きなんてするつもりなかったっつうの」
「冗談だ」
 分かってるって、と獅子神が柔らかく笑う。
「あなたこそ、こんな所で何をしている」
 そう聞き返し、獅子神の頭の先からつま先までサッと視線を走らせる。買い物の帰りか、手には食品らしき荷物を抱えている。薄らと汗をかいており、なんだか暑そうだ。それもそのはずで、今日の獅子神は厚手のコートにマフラーそれにショートブーツと、寒さが残るとはいえ少々過剰な防寒に思えた。
「暑くないのか」
 思わず、疑問が口を衝く。そんな私に、獅子神が頬を掻きながら恥ずかしそうに答えた。
「ああ、いや。最近外出てなくて、服装ミスっちまった」
「忙しかったのか」
 そういえば、と思い出す。随分と長い間会っていなかった気がする。確か。最後に会ったのは三週間ほど前か。
「ちょっとだけな」
「ちょっとだけ、か」
「今までと環境が変わっちまったからな。まあ、園田達も雑用だけじゃなく、事務仕事なんかも覚えてもらわねえとだ」
 園田、と名を出され、獅子神邸に雇われている二人の男を思い浮かべる。どちらも人の良さそうなマヌケだった。
「んで、オメーは?」
 腕を広げ、手ぶらであることを示す。
「散歩だ」
 なるほど、と獅子神が頷いた。
「珍しい事もあんだな」
「何も珍しいことはない。だが、私も最近立て込んでいてな。気分転換だ」
「へえ、じゃあ今日は休みかよ」
 そうだな、と答えれば獅子神が一瞬だけ何かを思案するように目を伏せ「じゃあ、さ」と切り出した。
「俺ん家で飯でも食ってけよ」



「そういや、真経津らが花見してえって言ってただろ」
 獅子神の荷物を半分だけ預かり、二人肩を並べて歩いていた。獅子神邸へはあと五分ほどの距離だ。平日の午後だからか、車通りは少ない。
「会ったのか」
「言ってただろ、前に。オメーも一緒にいただろうが」
 はて、と記憶を漁り、まあいいか、と辿るのをやめた。真経津のことだ。春になれば花を、夏になれば海に、秋は紅葉を、冬には雪を見たがるような人間なのだ。それも思いつきだけで。言ったとしても、言っていなかったとしても、同じことだろう。
「まあ、いいけどよ。とにかく、花見はいいなって思った」
「来週には見頃が過ぎている。やるなら今週がいいだろう」
「あー、やっぱそうなのか」
 ああ、と獅子神が見上げる。私も倣い、見上げた。満開の桜が私たちを見下ろしていた。川沿いに咲く都会の桜は、枝いっぱいに花を抱えている。そこから零れた肉の薄い花びらが、はらはらと散っていた。アスファルトは桃色に染まっている。
「……なら、あなたと私で花見とするか」
「え」
 横目で獅子神を伺う。きょとん、とマヌケ面を晒していた。
「なんだ、文句があるのか」
「いや、文句とかじゃなくて」
 慌てたように言葉を探しだす。が、見つからなかったのか、出てくる言葉は辿々しい。
「なにか問題でも」
「じゃなくて……オメー、明日は仕事なんじゃねえのかよ。花見なんて悠長なことやってる時間、あんのかよ」
「今晩見に行けばいいだろう」
 え、と二度目の疑問符が飛んでき、だから、と言い直した。
「分からんか、マヌケ。夜桜を見に行こうと、そう誘っている」
 上げていた顔を、獅子神へ向ける。
「それに、夜の方が花見客は少ないんじゃないか」
「……ああ、なるほどな」
 やっと納得したようで。形の整った唇が「夜桜な」と言葉をなぞり返した。
「最近、あんま遅くまで起きてねえから、失念してたぜ」
「夜更かしするよりはマシだが、少しボケすぎじゃないのか」
 口にしてから、それほどまで忙しかったのか、という可能性に気付く。確かに、前よりやつれているような。いや、これは状況に引っ張られているだけの錯覚か。
「……疲れているなら遠慮してくれて」
 いや、と獅子神が声だけで遮った。視線を上げ、私の言葉を遮った男の顔を見る。白っぽい花弁が金髪の頭に積もっていた。
「行こうぜ、オメーと俺で」
「二人で、か?」
「他に誰か誘いたい奴でもいんのかよ」
「いや」
 真経津たちはいいのか、と聞こうとしたが、やめた。今日ぐらいはいいだろう。今日ぐらいは、二人だけで時間を共有したって、罰は当たるまい。
「久々だな、あなたとデートするのは」
「デッ」
 耳の先まで真っ赤に染めた獅子神が、笑っているの怒っているのか、よくわからない面白い顔をして私を凝視している。凄い形相だ。
「違うのか?」
 あなたも、そのつもりだったんじゃないのか。そう問えば、態度のおかしい男が「まあ、その」なんてボソボソと喋り出す。それが、なんとも愛おしかった。
「可愛い男だな、あなたは」
「かわいっ……ったく、あのな、あんま虐めんな、俺を」
 虐めているつもりはなかったが、訂正はしない。獅子神だって、満更でもなさそうなのだし。
「夜桜には」
 突然、びゅっと冷たい風が吹いた。
 桜が舞う。途中まで喋っていた口を閉じ、身を縮めて寒さに耐えた。そんな私の鼻先を、ひらりと桜の花が触れかける。ふるふると顔を振り、一歩後ろへ退く。薄絹のような花びらが顔を掠め落ちていくのを、乱れた前髪の隙間から見送った。
「大丈夫か、村雨」
「花が」
「ほら、こっち向け」
 花は既に足元まで落ちている。だが足を止め、獅子神の方へ身体を向けた。傷の刻まれた手が伸び、私の頭をさっと払う。
「ほら、もういいぜ」
 そう言って微笑む男の頭に視線をやる。金髪の頭にはまだ、桜の花が積もっていた。
「……あなたの頭にも花が積もっているが」
「え、マジか」
 頭を振って花を落とそうとするのを「まて」と止める。手を伸ばし、黄金色の髪に触れた。さらり、と私の指から柔らかい髪が逃げていく。
 淡い色の目は伏せられている。私も頭の上を見ていたので、互いの視線は交わらない。
「ほら、全て取れたぞ」
「さっき」
「なんだ」
 伏せられていた淡い色の目が、徐に私を映した。
「さっき何か言いかけてただろ」
「ああ」
 風が強く吹く前だ。確か、夜桜には弁当を持っていくのか、なんて呑気な事を聞こうとしていた。
「気になるか」
「あ? そりゃ、まあ」
 先ほどの獅子神を思い出す。あんま虐めんな、俺を。そう満更でもなさそうに、はにかんでいた。
「……教えてやらん」
「ああ⁉︎ なんでだよ‼︎」
 背を向け、また歩き始める。そんな私に、獅子神は困惑しながらも素直について来た。
「なあ、なんて言おうとしてたんだよ、オメー」
「くだらん話だ」
「なら教えてくれてもいいだろ」
「後で教えてやる」
「今じゃねえのかよ」
「……今日は一日、一緒に居るのだろ。だから、さっさと帰るぞマヌケ」


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