残光


 違和感は、すぐ。
 リビングへと続く廊下を歩いている時から感じていた。
 ひとつは、臭い。明らかに血液から発せられている、生臭い鉄のにおいがした。もうひとつは、音。普通ではない荒い息遣いが、微かだが鼓膜まで届いていた。
 忍足で廊下を進む。どの部屋もエアコンどころか灯りすら点けられていない。薄闇は冷たく、廊下は不穏な空気で満ちている。悪いイメージが脳裏を過り、その度に頭を振って「馬鹿らしい」と吐き捨てた。
 獅子神の家に寄ったのは偶々だった。いや、最近顔を見ていないから。忙しいから、と会うのを控えさせられていたから。何やら頻度高く銀行を出入りしているらしいから。だから、恋しく思いわざわざ寄ったのだ。勿論本人には、用事で近くまで来ていたので寄った、と説明するつもりだが。しかし、私の予想に反して獅子神邸に人の気配は無く、だが言葉に出来ない胸騒ぎがし、以前渡された合鍵を使って中に入ったのだった。
 飾りガラスのはめられた扉の前に立つ。血の臭いも、普通ではない息遣いも、この先に居るであろう家主のモノだと確信していた。だからこそ、頭の中では煩いぐらいにアラートが鳴っている。
 ノブへと手を掛ける。血の匂いも、荒い音も、どこよりも濃い。
 ここに、居る。
 深く息を吸い、そっ、と音を殺して開ける。頭に描く姿を、目だけでさっと探す。見慣れた金髪の男はソファーに凭れていた。こちらには背を向けている。顔は見えないが、上下する肩から呼吸の確認だけは出来た。
「……」
 足元に気をつけながら前へと回り込む。真っ先に飛び込んできたのは、耳から流れる赤だった。
「獅子神っ」
 駆け寄り、顔に掛かる前髪をはらう。乾燥しきった血が、枯れ葉のように指へと纏わりつく。ぐったりと座る獅子神は酷く疲れた顔をしていた。目は瞑ったまま。起きる気配は微塵も無い。
 一瞬、心臓が痛み、脳が手を急かし、深く眠る獅子神を起こそうとした、が行動へと移す前に冷静さが私を叱責した。代わりに、触れないギリギリのところで口許に手をかざす。苦しそうだが、呼吸はしっかりとある。耳からの出血も、よく見れば大したことないモノだった。肉が切れてはいるが、軟骨まで達してはいない。それに、傷口は既に塞がっており、獅子神を染める赤は酸化し色褪せていた。荒っぽく扱ったのか、それともよく研がれた刃で切られたのか。普通より多く出血しているだけで、大事ではなさそうだ。ほっ、と胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はマグマのような怒りが込み上げてきた。この男は誰の許可を得て、傷つけられて帰ってきたのだろうか。
 当たり前だが、獅子神は私の所有物ではない。
 もし、この男がオークション落ちし、私が購入した人間であったなら、今、私が抱えている怒りは正当なモノだったろう。しかし、この男はオークション落ちもしていなければ、直近のギャンブルでは中々の好成績を収めているらしい。私が感情的になる筋合いは一つだって無い。寧ろ、この男に対して抱く全ての情的な抗議は、例外なく全てお門違いな迷惑行為だと言えるだろう。なぜなら、この男は私のではないからだ。
 それでも、私の怒りがおさまることはなかった。
 この男が私の与り知らない所で好き勝手をし、顔も知らない人間によって傷つけられ、そして人知れず血を流しながら帰ってきている。その事実が身を燃やすほどの怒りを発していた。
 この男の全てを把握したい。しかし、それをしてしまえば最後、折角築き上げた関係が壊れてしまうだろう。いや、壊れるはずだ。この男は、追えば逃げる。それも無自覚に。
「……」
 思考は一瞬だった。怒りは、理性で押さえつける事にした。
 耳から血を流し疲労の果てに眠る男の唇へ、音を立てずにキスを落とす。少しカサついた唇が、それほど長く激しいギャンブルだったのだ、と私に現実を突きつけてきた。不愉快だったが、込み上げてくる全てを飲み込んだ。
 吐息が触れる程の距離から、再び他人の距離へと戻る。眠る男の唇をそっと、親指で拭う。
「獅子神」
 瞼がピクリと動いたが、起きる気配は微塵もない。白磁のような頬を、人差し指でなぞる。乾燥し、枯れ葉のように頬へとへばり付いた血を、指の背で払うようにとってやった。眉根を寄せた獅子神が、座った姿勢のまま器用に寝返りを打つ。
 寝室へと勝手に入り、掛布団を拝借する。リビングまで持ってきたそれを獅子神の上へと掛ければ、そのまま男を起こす事なく家を後にした。


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