低音の鼻歌


 小腹が空いたので、なにか腹に入れようとキッチンに向かえば、獅子神とばったり出会した。当たり前だ。ここは獅子神の家で、キッチンはこの男の庭なのだから。さながら私は、赤薔薇が咲く女王の庭園へと迷い込んだアリスという訳だ。勿論、裁判沙汰は避けたいところだろう。
「……ここは一旦、あなたに譲ろう」
「譲るもなにも、俺ん家だろうが」
 私は顎に手を当て、成程、とわかりやすく得心してみせる。そんな私の茶番を「なにか食いたかったのかよ」と呆れた表情で、だが手元ではフライパンなんかを用意しながら獅子神が訊いてきた。
「なにか小腹を満たせる物でも、と思っただけだ」
「オメーの小腹って、本当に小腹なのかよ」
「私を侮るな」
「侮れねえから訊いてんだろ」
 私のくだらない遊びの応酬に付き合いつつも、適当なモンでいいよな、と獅子神が手際よく冷蔵庫から食材を取り出し準備していく。
「あなたが作るモノなら、なんでも」
「りょーかい」
 一歩下がり、少し離れた場所から獅子神を眺める。
 私は、この男が料理する姿を後ろから眺めるのが好きだ。
 獅子神は誰よりも料理が上手く、器用で無駄がないように見える。
 見ていて飽きないのだ。期待していたモノが徐々に出来上がっていく光景を眺めるのは悪くない。それに、ここはいつだって私の好奇心を擽る匂いに満ちていた。
「なにを作る気だ」
 くるり、と。アスパラを切っていた獅子神が顔だけをこちらに向ける。肉以外はあまり入れてほしくないのだが。そんな私の心中など知る由もない獅子神は、ニヤニヤと悪戯っぽく笑っていた。
「できてからのお楽しみだ」
 こう言われてしまえば、こちらからは何も言えない。今、この瞬間、主導権を握っているのは獅子神なのだから。私はただ優秀な主導者の言葉に従うほかはない。
「なら、このまま特等席で待たせてもらう」
「火使ってる時にあんまひっつくなよ」
「善処しよう」
「不安しかねえ返答だな」
 そう言うが獅子神は可笑しそうに笑い、手際よく切ったアスパラをボウルへと移した。次に登場したのはトマトで、こちらも器用に切られていく。
 鼻歌が聴こえた。低音の、あまりメロディに弾みのない、スローな鼻歌だ。獅子神だ。機嫌が良いのか、それとも無意識か。まな板の上で踊る包丁の、トントントン、という音をメトロノームにし、囁くように歌っている。
 なんの歌だったか。知らない歌かもしれない。だけど最近は同じものを観て聴いて過ごしているから、知っている可能性の方が高いだろう。曖昧な鼻歌もサビに近づけば知っている曲になるかもしれない。
 時間が緩やかに流れていた。互いを取り巻く風は温かく、あくびが出そうなほど穏やかで。特別なことなど何もない、普通の日常だった。
 だが私は、こんな時間を手放したくない光景だと感じていて、事実、浅くはない執着まで抱いている。だから、こんな細やかな瞬間でも共有したいと居座っているのかもしれない。特等席、なんて名前まで付けて。鼻歌の題名を思い出そうと躍起になって。
 綺麗に切られたトマトもボウルへと移され、今度は艶のある重そうな茄子が出てきた。
 肉はまだ出ないのだろうか。獅子神のことだ。私が黙って野菜だけを食べる、など。そんなことは考えていないはず。そのはずだ。
 獅子神の背後でウロウロと歩き回っていれば不意に目が合った。
 不安がる私を見て獅子神は、また可笑しそうに笑った。


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