軈て咲く


 寝室の灯りを消す。闇色に塗りつぶされた世界で、隣で寝ている男の体温を感じ取った。
 少しだけ、ほんの少し、身を起こし、体温へと近寄り、枕に頭を預ける。匂いが濃くなったのは、先ほどよりも距離が近くなったからだ。
 手を布団の上で彷徨わせ、探す。隣で寝ている獅子神の手を、探した。向こうも私の手を探していたのか、触れたそれは私の手を握ると力尽きたようにシーツへと沈んだ。握られた手を、私も握り返す。もう一度、獅子神の手が私の手を握り返した。
 例えば、欄干で羽を休める小鳥のように。例えば、仕事の手を止めて挟むティータイムのように。
 私たちの関係をなにかに例えるとするならば、このような、ささやかな存在だった。ただそこに存在しているだけ。たったそれだけ。それだけだったが、この関係が互いの拠り所となってはいた。
 手放し難い唯一の関係であって欲しい、とは、私が勝手に抱いている願いだ。だがきっと、そう思っているのは私だけではないはずだ。
 指を広げ、獅子神の手に己の指を絡める。お互いにゴツゴツと骨張っていて柔らかくない手だから、絡まる指が少々痛い。それでも手を離すことはしない。
 目を瞑り、闇色の中で他人の温もりに耽溺する。肉体を開く以外で他人の体温を心地が良いと思ったのは、獅子神が初めてだった。
 私たちは一度も閨事を交わしたことはない。俗な言い方だと、まぐわった事がない、だろうか。兎に角、今夜のように手を重ねあうことは数えきれない程あっても、その体の奥深くまでは触れたことがなかった。
 性的な衝動が無い訳ではない。寧ろ私は、この男のもっと深く、自身でさえ知らないであろう場所まで知り尽くしてしまいたい。そう思い、欲している。それでも手を出さないのはこの男に、獅子神に嫌われたくなかったからだった。
 獅子神の手を取り、その体に触れた時、淡い色の瞳その奥に怯えた色が差す。縮瞳した目は私を透し、どこか遠くを見て揺れるのだ。ここではない。どこか遠く、自分の思考へと溺れることができる場所へ。そんな目をして私という存在を透かす。
 あなたが心配するような気持ちを、私が抱くとでも?
 そう言葉にしてしまうのは簡単だ。だけどそれは、ただ一方的に私の気持ちを押し付けるだけの我儘でしかない。特に今、相手の気持ちが以前より鮮明に見え、聞こえるようになった私には、やはりどうしても気休めのような言葉を軽々しく口にできないでいた。
 繋いでいた手から辿っていき、柔らかな頬に触れる。灯りのない寝室で獅子神の姿は不鮮明だが、確かにそこに居ると確信していた。片手だけで頬を挟み、触れるだけのキスをする。ほんの少し、ちょっとだけ。そしてまた離れ、頬を撫でる。
 くすくす、と擽ったがる笑い声が聞こえた。
 なんだ、と問えば、寝れねえのか、と返された。
 そうだ、と暗闇の中で答えると、そうか、と暗闇の中で返された声が揺れた。
 夜の誘いだと思ったのかもしれない。いや、そういう意味を含んでいた事は否定できない。だけど無理強いをするつもりは毛頭も無かった。
 頬に添えていた手を、また、獅子神の手に重ね、指を絡める。何も無かったかのように息を吸い、深く吐いた。体の内を燻っていた衝動が、繋いだ手から溶けていき、やがて充足感となって消えてゆく。
 おやすみ、と声を掛けた。
 おやすみ、と安堵した声が返ってきた。
 実線のない、影と光で描かれた絵のような関係かもしれない。そう、私たちの関係には形がないのだ。契約書も無ければ、指輪も無い。寝室を共にするも、そこに情事を持ち込むことだってない。形がなく、不鮮明で、曖昧だ。だからこそ私は安心できる。
 重なる手の温度は高い。離れないよう、ひしと掴む。この手は、眠りの浅い私に一時でも安らかな夢を見せてくれた。
 獅子神にとっても、私がそんな存在であればいいのだが。
 不安に揺れるこの男は、形を与えると逃げてしまう気がした。手を伸ばしても、もう二度と届かない場所まで。遠く、私の及ばない場所に。形にしてしまう事で賢いこの男は一層の恐れを抱いてしまう気がした。だから私は、私たちの関係に確かな形を与える行為や言葉を躊躇っている。
 夢に落ちる前、繋いでいた手を握られた。気がした。なにかの反射だったのかもしれない。だが私も、その手を握り返してやった。ここに居る、と主張したかったのかもしれない。何にせよ、私も随分と夢の中だ。
 他人から見れば、水に浮かばせた紙の船より脆く頼りないかもしれない。風が吹き水面が揺れれば、たちまち転覆してしまうような。そんな弱々しい関係だと思うかもしれない。そう見えても構わなかった。私は、そしてきっと獅子神も、輪郭のない関係に一番の安心を感じているだろうから。
 傍から見れば不誠実だと感じるかもしれない。
 友人から見れば私たちは奇異な存在かもしれない。
 それでも私は、これを愛だと思いたい。
 朝を迎えてもきっと、私たちは曖昧なまま手を繋いで生きていく。


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